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谷沢翔樹

 ぼちぼち桜が満開になる季節だというのに街中の人達は首にマフラーを巻き、コートを着てせかせかと歩いている。
 そんな光景を眺めながら出勤前に俺は腐れ縁と言ってもいいある人物と喫茶店で待ち合わせをしている最中だった。
 腕時計に目をやり、すっかり温くなってしまったコーヒーを一口啜ったその時、後ろからお待たせ、と声をかけられる。
 「重役出勤か?」
 向かいの席に座ろうとする彼に俺が半ば皮肉気味に応えると
 「やだな半沢君、その腕時計は飾りですか?」
 と思わぬ皮肉返しに出る言葉もなかった。
 午前8時。
 始業までは1時間もある。
 が、待ち合わせ時間はとうに過ぎていたのだ。
 しかしそんなことを咎めるよりも先に知りたいことがあった。
 呼び出された理由を、俺はまだ聞いていなかったのだ。
 「それで、話しってなんだよ」
 コーヒーカップを置きながら水を向けると彼ーーー同期の渡真利は神妙な顔で、しかしどこか得意げに話し始めた。
 「これは裏情報なんだが、どうやらうちの広告塔に起用していたあの大谷翔平選手が…」
 ご注文は?と聞きにきた店員に彼と同じのを、と告げた後で店員が去るのを見届けると乗り出すようにこちらへ顔を近づけ、ぼそっと言葉を続けた。
 「どうやら巨額の資産を横領されたらしいんだ」
 朝刊にも載っていない裏情報がどうやって彼の元へ届いたのかは置いておいて、それは中々インパクトのあるビッグニュースだ。
 「まさか、どういうことなんだ」
 「通訳のほら、なんとか一平ってのがいただろ。あいつが勝手に大谷選手の資産を闇賭博の資金にしていたらしい」
 そんなこと、まさか。
 WBCでその通訳の存在を知ったが、唯一無二の存在としてフォーカスされていたのを覚えている。
 そんな人物が、長年共に歩んできた大谷選手を裏切るだろうか?
 信じられないな、とコーヒーカップを口に運ぶ俺を見て
 「もっと信じられないことを教えてやろうか?」
 怪訝な表情を浮かべたであろう俺の反応を見てべらべらと勝手に喋り続ける。
 よくもまあ、こんなお喋りに裏情報が回るもんだ。
 「大谷翔平選手の横領資金…それを回収するためにうちからある人物をドジャースへ出向させる話しが出たんだ」
 思わずコーヒーを吹き出しそうになるのを堪えて
 「どういうことだ?」
 と問うのがやっとであった。
 全く、意味がわからない。
 「大谷翔平選手は今やメジャーリーグの大スターだ。そんな彼のイメージを払拭させようとドジャース側が動いて規模のデカい銀行に片っ端から横領資金回収の依頼を出したらしいんだが……」
 「アメリカにそんな馬鹿な依頼を受ける銀行は、ない」
 そもそも銀行が回収する道理もない。
 銀行が回収するのは債権であり、一個人の横領された資金を回収するなんて銀行の仕事でもない。
 当たり前だ。
 そして渡真利は俺の言葉に指をパチンとさせて返事をする。
 まったく、彼のよくない癖だ。
 「そこで白羽の矢が立ったのが大谷選手をイメージキャラクターとして起用している……」
 「東京中央銀行、ってわけか」
 渡真利の目の奥が、ニヤリと笑ったように見えた。
 「うちの上層部も正気じゃないが、まあ日本国民への絶好のアピールになるとでも思っちゃったのかね」
 ため息混じりにやれやれ、と運ばれてきたコーヒーを受け取り渡真利は一口啜った。
 「それで、お鉢が回ってきた人物って誰なんだよ?」
 待ってました!と言わんばかりに先ほどよりも勢いよく身を乗り出した渡真利が口にしたのは
 「半沢直樹」
 ーーー俺の、名前だった。

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