【小説】夏草の露 09/25
#9 暗闇で感じるもの
「ちょっと待って」
反応がなかった辺りを中心に、マグライトの先端で円を描く。
少しづつ大きく、螺旋状に――手応え有り。
もう一度細かく確認する。
通路の角か?
「……曲がり角だ。一本道じゃなかったのか?」
「あ、ここ、ジグザグなんだよ。曲がり角ってことは、ここから水槽ゾーンなんだね。ネイデさんが言ってたんだ。普通の水族館って通路に対して平行に水槽面があるのに、ここの通路は通路に対して水槽面が三角、つまり二面が飛び出していて、それが牙みたいに両側から交互に飛び出しているもんだから、結果的に細くてジグザグの通路になっているんだって」
確かにさっきまでの通路と音の質感が変わった気がする。
響いている音はそれほど高くはないから、ガラスではなくアクリルだろうか。
だから足元にガラスの破片がないのかも。
床に何かがあるのとないのとでは歩きやすさが全然違う。
特に暗闇の中では――でもさすがにもうそろそろ明かり点けてもいいんじゃないか?
「そっか。でもそういうことなら、そろそろライト点けようか?」
ただの通路なら叩いたそこに必ず壁があるのでそこまで怖くはない。あるものをあると確認し続けるのなら。
あると思っていたのにないとか、逆にないと思っていたのにあるとかが心臓に良くないだけ。
だから曲がり角はあまり心穏やかではない。
「……んー。でも、道は一本だし、大丈夫じゃない?」
何が大丈夫なのか分からない。
トワさんはマグライトのスイッチについて知ってか知らずか、とにかく手を放してくれない。
「それに……顔を見られながらだと、ちょっと恥ずかしいし……あたし、顔に出やすいみたいでさ。キチ野郎にも、とぼけたの見抜かれたみたいでね。結局その後つきまとわれるようになっちゃって。事あるごとに付き合ってほしいとか言ってくんの。冗談じゃない。AV出る女って全員軽いって思ってんのかね。簡単にヤレるとかって。別にAVでも股開いてたわけじゃないのに」
コメントしづらい内容だけど、勝手に話し続けてくれるのはちょっと助かる。
「つーか、脅しをチラつかせてる時点で恋愛には絶対に発展しないよね。それがわからないとこが無理。人として好きになれないのに、付き合うなんて論外だし触るのも無理」
手をぎゅっと握りしめられ、あまつさえ腕を抱え込まれている状態でそう言われると、自意識が過剰になりそうだからと意識をトワさんとの密着部へは割かないようにする。
意識を周囲へと移すと香りに気付く。
磯の香りが濃くなっていることに。
でも営業しなくなってから三十年近くだよね?
さっきの魔女のホウキでの焦げ臭さでも思ったけど、こういう香りって、こんなにも残っているもの?
「きっとね、尾行されてたんだと思う。いつの間にか自宅もバレててね」
一方、トワさんの話は続いている。
「休日にばったり会うんだよ。服を買いにいって店から出るとそこに居るの……気持ち悪くって怖くって。でも、証拠に残りそうなことはしてこないの。迷惑メールとかイタ電の類いは。いつも偶然会った風を装って挨拶してきて、すぐ離れてくんだけど、去り際に『付き合ってほしいなぁ』とかボソって言うの。恐怖でしょ」
話を聞きながら、さっきトワさんがあの男を殴っている時のことを思い出していた。
あれだけ殴る背景には、それなりの理由が隠れていたんだなと。
柄の先に当たる音が増える。
トワさんを制しながら立ち止まり、もう一度確認してみる。
やっぱりだ。正面にも壁。
ここで九十度向きを変えなきゃってことか。
ギザギザに配置された水槽通路か。
こういう配置も周りを水に囲まれている感じで案外悪くないのかもしれない。当時ならば。
ちゃぷ。
今の音、水?
近くではないようだけど。
「トワさん、何か聞こえなかった?」
「コンコンって壁を叩く音以外は、なんにも」
気のせいなのか。
水槽を強く意識し過ぎているからか?
自分の耳に入ってくる音が本当の音なのか、それとも闇の中で増幅した不安が聞かせる幻聴なのか、わからなくなりかけてる。
「だよね」
自分自身に対しても発した相槌。
再び歩き始める。
そもそもこの場所はストレスが溜まる。
臭いや歩きにくさ、暗闇という物理的不安に加え、オカルトめいた精神的な不安、そして前後を塞がれたら逃げるのが厳しそうだという戦略的な不安もある。
早くこのアトラクションから出たい。
「……で、キチ野郎さ、あんまりにもしつこいから、あたしとうとうブチ切れてね。それって脅してるの? 付き合わないって言ったらそのDVDを会社でばらまくの? って詰め寄ったのね」
そういやトワさん、脅されてたって言ってたよな。
「そしたらね、『他の男には見せたくないから、ばらまいたり、どこかにアップしたりはしない』って言い出したのね。ノーパソに入れておくとハッキングされてデータを抜かれるかもしれないから、いつも持ち歩いている小型のハードディスクにしまっているとか、もともとAVもあたしの事可愛いと思ったからずっと取ってあったとか……正直反吐が出た。でも、逆にチャンスって思ったの。そのデータを取り戻しさえすれば、キチ野郎があたしに付きまとう理由を奪えるって考えて。だからこの廃墟ツアーを知った時、あいつに持ち掛けたんだ」
持ち掛けた?
まさか、殺そうと?
さっきのトワさんの剣幕が脳裏に蘇る。
手のひらにじっとりと汗がにじんでくる。
そのタイミングでマグライトの柄がまた宙を切る。
曲がり角があるってのはわかっているはずなのに、やっぱり心臓に良くないな。
「ハードディスクのデータと元のDVD、ダビングしたりコピーしたりしたもの全部あたしにちょうだいって。その代わり、一日だけ付き合ってあげるからって。あたしのこと撮影禁止って条件付きでも、キチ野郎は飛びついてきたよ。条件付けたのは『一日ってことは二十四時間だよね?』とかしつこく確認してくるからだったんだけど、それ以外にも髪型とかサングラス禁止とかスカート丈とか、なんか色々細か過ぎて本当嫌だった。もちろん一日恋人っていう設定も、何でも言うこと聞く奴隷じゃなく、気に入らないことは拒絶したり、生理来たって言って土壇場で一線守ったり、そういうことへの布石なのね」
また正面に壁。
向きを変えるとすぐにトワさんも方向を調整する。
随分とスムーズに方向転換できるようになっている。
「このツアーが見つかる前、場所はホント困ってたんだ。キチ野郎をあたしの家に上げるのは絶対嫌だったし、キチ野郎の家に行くのも隠しカメラとかありそうで怖かったし、完全な二人きりも嫌だからどこかに宿取るとかも避けたかったし……そして、ちょうど行こうと思ってたこのツアーを選んだの。宿泊はね、完全に男女別テントなの。家族でも。そういう環境なら、いざとなったら周囲の人に助けを頼めるかなとか、あと頭のどこかにミラーハウスの噂がこびりついていたのかも。キチ野郎の人が変わって、いっそあたしのこととか全部忘れてしまえばいいのに……そんなこと夢想したりもしてた……」
ミラーハウスのことを思い出すと気分が重くなる。
トリーは無事なのだろうか。
少しでも不安を抱えると、暗闇が勝手にそれを育ててしまう。
今、手をつないでいるはずのトワさんも本当にここに居る存在なのだろうか、とか。
傍らで語られ続けている物語も自分の日常からかけ離れ過ぎているし。
トワさんには申し訳ないけれど、執拗にベタベタされて、話はドラマチック過ぎて、なんだかリアリティを薄く感じてしまう自分も居る――ツクリモノ感。
瑛祐君の説明を思い出す。
もし彼女が今、無表情な顔をしていたら。急にドイツ語をしゃべり始めたら。
いや、トワさんがトワさんのままだとしても、僕が壁を確かめるこの音に紛れて静かに近づいている誰かが居たとしたら。
また曲がり角。
さっきよりはドキドキが小さい。
慣れてきたのだろうか。
それともこの闇に絡め取られて麻痺していっているのだろうか。
なんだか空気が冷たくなってきた気がする。
この温度の変化は、気のせいじゃないよね?
「ここ着いて自由行動になってから、それとなくミラーハウス誘ってみたんだ。キチ野郎はついて来たよ。ミラーハウスの一階はけっこうガラス割れててアレだったけど、二階は一室あるだけの展望ルームが綺麗だったよ。けど気味が悪かったな。中世のお姫様の部屋って感じの内装なんだけど、肌寒いっていうか……こんな季節なのにね。そう、ここみたいに」
冷気は気のせいじゃないのか?
それともここは地下みたいなものだから夏でも涼しいとかか?
いやそれにしては冷えすぎる。
自分だけ感じているわけじゃないという安心感と、なんで寒くなるのか原因のわからない不安とが混ざり合う。
「妙に冷えてきたよね。地下だから涼しいのかな。ほら、鍾乳洞みたいな」
「そだね。ホント」
トワさんが物理的な密着度をさらに増やしてくる。
胸の奥がザワつく。
こんな状況をトリーに見られたら。
トリーは嫉妬してくれるだろうか。それとも気にするほど僕に対して興味を持っていなかったりして。
ヤツラに追われているという不安に、超常現象的な出来事への不安、そしてトリー自身との関係性に対する不安。
なにやってんだ僕は。
当初の目的を心に強く取り戻さないと。
僕はトリーを迎えに来たってのに。
また曲がり角。
自分というものがあやふやになりやすいのは、暗闇の中に居るからなのかもしれない。
暗闇では自分の境界そのものが分からなくなってくる。
どんなに目を見開いても何も見えないせいか、いつもは視覚で確認していた「境界」を視覚以外の感覚で判断しようとしてしまう。
例えばトワさんに触れている右手は、触覚でそこに自分の右手が存在することを認識している。
けれどマグライトの柄で壁を探し続けている左手は、本当の手の長さよりも遠くで鳴る音や、直接触れているわけじゃないのに手に伝わってくる振動やらで、左手の境界を実際よりも遠くに感じてしまっている。
五感から得られる情報が、暗闇の中ではかえって距離感をバグらせる。
自分という存在が闇の中に溶け出してしまっているのでは、という自身に対する不信感は、こういう闇を体験するまで味わったことなんてなかった。
僕はちゃんと僕自身の姿を保てているのだろうか。
そして大切な想いをも、自分の内側に留めておけているのだろうか。
次に触れた正面の壁は、マグライトの柄だけで終わらせず、ちゃんと自分本来の左手でも触れてみた。
大丈夫。
僕は僕のままだ。
「……続き、話すね。ミラーハウスに行ったときはね、まだ全然明るかったんだ。外だってそこそこ暑かったんだよ。だから空気の入れ換えも兼ねて窓でも開けようかなって近づいたのね。でも窓ははめ殺し。いざとなったら大声出して人を呼ぼうかなとか、飛び降りて逃げようかなとか考えていたからちょっとがっかりしてたんだ。そしたらその時、あたし気付いたの。キチ野郎、いつの間にか三脚とカメラをセットしてて。約束違うじゃないって怒ったんだよね。そしたらキチ野郎、本性が出たっていうか逆ギレかましてきてさ。『自分は約束守っています。君のことは映してない。約束したから。でも君は鏡を撮ることまではダメだと言っていない。鏡の中に何が映り込んでいても、君との約束には抵触しない』って。すげー屁理屈。あーもう腹立つ!」
そのとき不意に、背中がぶるっと震えた。
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