日々の機微(19) 俳句というアンチノミー

俳句は技芸じゃない!とずっと反発していました。
というのも、これまで私のなかでは、江戸時代の俳諧というのは、習い事としての役割が近く、俳句は正岡子規によって芸術としての再スタートが切られた文芸という認識だったからです。

つまり、江戸時代の俳諧は、明治時代に俳句として、未分化な状態に。言い換えれば、正岡子規によって、真っ新なものとして生まれ変わったものと捉えていました。

だから、俳句をやっていて「技術」や「技法」という言葉は俳句以前の習い事という意味合いが強いと感じ毛嫌いし、「技術」や「技法」、学校文法で習う古典文法をきっちり守るといったことが重要視されるコンクールも同時に毛嫌いしてきました。

「新しみは俳諧の花」と松尾芭蕉は言いましたが、俳句も常にこれまでにないものを作るぞ!というスタンスを貫かなくてはならない。そう思っていました。

しかし、その考えを最近やめました。
俳句が技芸じゃないとすると、現在つくられている俳句の多くは俳句じゃないことになってしまいます。それってへんではありませんか?

話がややこしくなりましたが、これは、つまり、アンチノミーです。
アンチノミーを日本語に訳すと二律背反になります。
すみません、話はややこしいままですが、アンチノミー、二律背反とは、論理学の用語で相反している2つの主張が同時に成り立つか、またはどちらも成立しないで、決着がつかない状態のことです。

もっとややこしくなりましたが、片方をどちらか否定すると全体が成り立ちません。

例えば、俳句は文語で書くとすると、口語俳句は俳句でなくなってしまいます。俳句は有季定型だとすると、自由律俳句は俳句じゃなくなってしまうことになります。だから俳句が斯くあるべきを捨てました。私には規定しようがないことだと諦めたのです。

これ以上に深く立ち入ると難しくなるし、宗教臭くなるので、この話もこの辺にしますが、二律背反(アンチノミー)についてもう少し詳しく知りたい方は、野矢茂樹さんの『入門!論理学』が専門用語を極力避けて解説しているのでおすすめです。

さて今日はなんだか自分の中でも頭の中の整理途中のような文章ですみませんでしたが、アンチノミーをテーマにしたamazarashiの曲を最後にご紹介します。その名も!「アンチノミー」です。

アニメーションがすごく感性を刺激してくれるのでよければご覧ください。

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