2022.12.24 宇宙兄弟とネオノスタルジー
「悲劇には慣れている。『ドーハの悲劇』生まれの宿命だよ」(『宇宙兄弟』南波六太のセリフより)
宇宙兄弟の南波六太が生まれた1993年が私の生まれた年でもある。
この年は、ドーハの悲劇以外のニュースとして、Jリーグ開幕、河野談話発表、野党連立政権の細川内閣誕生、どうぶつ奇想天外放送開始、など新時代を予感させる話題も散見される。
しかし、その裏側ではバブルが崩壊し、失われた30年と呼ばれる時代の起点ともなった。
振り返ると明治政府誕生から今日までの154年間。64年が昭和であり、31年が平成であった。
昭和という時代は長く、最初の25年間は富国強兵の延長だったとすると、令和に続く現代日本は、敗戦から始まった。
これまでに日本では、東京オリンピックや大阪万博、新幹線開通や高速道路の発達など目覚ましい進歩を遂げた。
そんな礎となった昭和の上に築き上げた平成。
平成5年生まれの私は、小学生の頃、団地に住んでいる友達と野球をしていた。小学校は1学年2クラス。お互いの家の電話番号を電話帳に記して、友達の家に電話をかけて遊ぶ約束をした。
家にパソコンが来たのは小学生の頃。起動するまで時間がかかるから電源を入れて立ち上がるまでテレビを見ていた。
ドラえもんの声が変わったのも小学生の頃。
大阪で世界陸上が開催されたのは中学生になった頃。スウェーデン代表のステファンホルムを競技場で見た。頭上59センチを跳ぶ男の跳躍はかっこよかった。
陸上部に所属していた私は、新大阪駅から長居公園まで陸上の試合で行った。入学した頃はまだ長居公園にブルーシートの家がたくさんあったと思う。
ガラケーを買ってもらってのもこの頃。用事もないのに先輩にメールを送っていた。
高校生になると、mixiが流行った。連絡はらくらく連絡網を使っていた。深夜までマックスバリュでたむろしていて怒られた。笑えないくらいに。高校を卒業する頃、FacebookやTwitterに登録した。
これらは平成前半の原風景。
大学に入った頃からLINEで連絡を取り合うようになり、ケータイもガラケーからスマホに変わった。
大学を卒業し、愛媛で暮らし5年。
大阪に帰ってみると原風景は大きく変わっていた。
もちろんコロナウイルス以前と比べると日本全国津々浦々、生活様式が変わったというのは当たり前。しかし、圧倒的に感じるのは、都市における原風景の変化だ。
電車に乗ると動画を見ている人がいる。駅には安全柵が設置されている。至る所にあるラーメン屋。近所には新しい駅も出来ている。
対して、友達と殴り合いの喧嘩をした公園は、金網が設置され入れないようになっていた。枯芒が生い茂り。その中に遊具が埋もれていた。
5年ほど都市から離れてみると浦島太郎のように変化した都市に驚かされる。しかしそこには昭和から地続きだった平成が変わり果てた姿で残っている。あれもこれもそれも。
白黒写真を眺めるような感覚で目の前に広がるノスタルジーな世界に眩暈がする。
芝不器男にとっての「ふるさと」もこんな感覚だったのだろうか。今を生きていたはずの自分が過去の世界だと気がついたとき、今がノスタルジーさを持って自分に襲いかかってくる、というのが今回の大阪で感じたことだ。
もし私が『宇宙兄弟』の南波六太と同い年になったとき、そのときの大阪はどう変わっているのか。
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