日々の機微(56) 反応反射古語写生


写生のこと

月刊俳句同人誌『里』2月号が届きました。『里』は兵庫県尼崎市に拠点を置き、島田牙城さんが代表するグループです。

今号の特集は写生幻想。前号から続く「写生」企画です。この「日々の機微」を書く段階ではザッとしか目を通していませんが、これからパラレルワード「写生」について考えを深めたいと考えています。

特集のなかの記事、島田牙城さんの「古語『写生』のこと」では、前回の写生アンケート「写生とは」に対する島田牙城さんのコメントが返ってきていました。進研ゼミの赤ペン先生からの回答を見るようで楽しかったです。

私の「対象を抽出した結果、その間のフィルター」という回答に対して牙城さんは、「よく分からんかった。悩まれたか。難しく考へなくてもいいのではないかと、言うておく」とコメントしてありました。

何度もリライトした結果よく分からない回答になってしまってお恥ずかしい😅

「写生とは」、というビッグイシューに対して、100字という制限では、なかなか思い通りのことを書けないという実感はありましたが、現段階で、私の回答としてはやりきった感がありました(独善だとしても。)

ですが、今回の牙城さんからのコメントを眺めつつ、「写生とは」という問いに対して、ちゃんと答えられたのかなぁと振り返りながら考えていました。

言い訳

この写生アンケートを答えるときに、私の念頭にあったのは、現代アート作家T氏と私たちとの対話でした。
T氏は対象と作品との間で作家が透明になる瞬間があると言っていました。


かつて大阪の葉ね文庫で、現代アート作家のT氏の作品が展示されていました。その作品が、まさに、作家というフィルターを通して現実世界をどう表現するかというのがテーマでした。。

上の写真が当時の作品ですが、棚の中のドライフラワーが見えないように2枚のアクリルの板を木工用ボンドで貼り付けて、ドライフラワーの前に置いてあります。

この木工用ボンドは時間が経過すると透明になってきて、棚の中のドライフラワーが徐々に見えるという仕組みです。そのとき目の前にある木工用ボンドで貼り合わされたアクリル板は人間の認知では変化していないように感じるレベルですが、一瞬たりとも同じ瞬間はありません。それがこの作品のテーマでした。これは、そのまま、どんなモノでも変化しないものはないという世界の摂理が表現されています。

私はこの作品がとても気に入り何度も足を運んだのでした。この価値観が私に強く影響を与えています。

作品を書くことは、概念、日常、社会といったテーマを作家として、フィルタリングして、どのように表出するか。それが写生なのか分からないまま「写生とは」の答えとして提出しました。

今思い返すと、俳句史上の写生論フル無視で回答しました。

なので、やはり「(俳句における)写生とは」という問いに対する答えになっていないような気がしました。これはあくまでも「(わたしにとっての)写生とは」です。


その際に作家というフィルターは見えない方がいいのではないかと思います。

と、写生アンケートについて言い訳を書いたところで牙城さんの「古語『写生』のこと」の文章がおもしろかったので感想を残しておきたいです。もちろんアンケートに対する牙城さんのコメントもめちゃくちゃ面白かったが、特に後半の波多野爽波さんのエピソードがすこぶる面白かったです。読んでいて「青」系譜の人々が多作を大切にしていたことが改めて分かる内容でした。写生アンケート号と合わせて手元に置いておきたい特集号だったとつくづく思います。この企画でいくつか新たにできた問いや感想をメモして終わりたいと思います。

○写生と叙景とはどう違うんやろか。
→作家を通して表現されるというプロセスのうえで写生と叙景はどう違うかのだろうか。自分がやりたいのは写生か叙景か。

○一題十句✖️数ラウンド回さないといけないんや。

○牙城さん。爽波さんにいろいろ質問したんや。。

○祭はダメ、神社仏閣はもってのほかと爽波さんがいうたという話、田中裕明さんは俳句つくりに神社仏閣によー行ってたんやんなぁ。。

○写生に関してだけやなかったけど爽波さんの話めちゃくちゃ面白かった

○写生の機微ってええ言葉やな。


と18ページまで読んで、ダメだ。やはり読書体力がない。これ以上は一気に読めない。なので、ここで今日は終わります。

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