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哲学”まがい”とは

哲学”まがい”という言葉について

さっき、他の方のnote記事を読んでいたら表題にある「哲学”まがい”」という言葉が目に止まった。

文脈としては、アカデミーで学ぶ(哲学科とか)ようなガッツリとしたものではなく、自身の経験から得られたものを”まがい”と呼んでいたわけだが……

―そもそも、哲学はアカデミックでなくてはならない、というその前提に私は疑問を抱いた。

哲学の辿ってきた道

いわゆる「哲学」という営為をいつ頃まで遡って論ずることができるか。

これは、私なら「古代ギリシア」を挙げ、ソクラテス,プラトン,アリストテレスの名を口にする。

あの時代には、ソフィストと呼ばれる詭弁家たちが、如何に相手を言い負かすか、ということに執心していた―それはまさしく、”詭弁”が示唆する通りであるが…

この時代には、プラトンなんかはピタゴラス教団に入ってた、なんていう話があったりする(諸説あり? ちょっと文献が見当たらなかった)。

時代が下れば、ストア派とか”同じ考え(自然観)で共鳴し合った人々の集団”が見られた。

或いは、ソクラテス→プラトン→アリストテレスっていう師弟関係を見てみれば、ビッグネーム(大家)を掲げてそれに追随する者たち、という図式もできあがっていく。
これは、後の時代にますます顕著になっていく(現代なんかまさしくそう)。

そういった流れを汲んで、今の「哲学」と呼ばれる体系ができあがってきた。

”既得権益”という思い込み

ビッグネームに追従する形での体系立てが進行してきたことは前項で述べた通りだが、それによってどういう思い込みが生じているのかについて、ここからは書いていく。

これは哲学に限った話ではないのだが、「先哲の思想を学んでいないorその流れを汲んでいない」から価値がない、という言説がまかり通るようになってしまった。

たしかに、既存の議論を学ぶことで、専門性を有する場での会話をスムーズにする、ということは言えるかもしれないが果たして、

<そういったものを知らない>=<発言に価値がない>と決めつけるのは甚だ疑問である。

そういった傾向はあるかもしれないが、そう決めつけることは、ただ単にイレギュラーを排斥したいだけの排他主義の骨頂である。

こういう風潮が世の中に強く根付いていることで、「哲学」というものはある種の既得権益的な学術領域だと誤認されているようである。

その証左が”まがい”ものの哲学であり、その言外に如実に表されているのは、学問の、その領域の大家を崇拝するただの排他主義者の営みという性格なのである。

イノベーションは”革命”という形で起こる、つまりこれまでには無い形での前進、ということだが、

こういった前例主義的な鬱屈とした空気では、それも叶わないのは納得だ。


だからといって無論、先哲を軽んじて良い、というわけではない。

ただ、そういったものに明るくない(専門性がない)からと言って一蹴する姿勢は正すべきなのではないか、ということである。


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