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歴史上の研究者の氏名を「暗記」する?

はじめに

今日読み始めた、酒井邦嘉の「科学者という仕事」という本について、少し考えをまとめておきたいことがあったので、筆をとる。

では、上の本の該当するページを見ながら、書き進めていこうと思う。

科学は、人間の営みである

さっそくだが、ページ31から32にまたがって

研究者の名前は「覚える」というより、「自然と覚えてしまう」ものだと思っていた

と書かれている。

この記事を読んでいる人で、先の本を読んだことがないものには、突然のことで何も分からないだろう。

いきなりなんで研究者(科学者)の名前の話が出てくるのか。

なんでも、この先生はテストで科学史上に名を残す人名を大学の講義の試験で出したら、学生からの顰蹙を買ったらしい。

発見の内容をきちんと理解できていれば別に人名などは覚えなくても良い、という意見が学生から続出した。これが私にはちょっとした驚きだった。

その出来事への感想が、上のものである。

酒井氏自体のスタンスとしては、「はじめに」のページⅲで書かれていることなのだが、「科学は人間が創るものである。」というふうである。

ここに、とにかく科学者個人の(サクセス)ストーリーに非常に注視していることが端的に表されている。

似たような話、というかこの総括になるようなことが、村上陽一郎「新しい科学論」の序章ページ27に書かれている。

つまり科学は、善かれ悪しかれ、これまで考えられていたより何かもっとずっと人間的な営みだ、ということ(小略)この人間的ということばの意味は、いろいろなレヴェルの、いろいろな角度からの内容をはらんでいるように思われます(以下略)

この本もまだ第1章の途中までしか読んでいないので、もしかしたら全くの見当違いのことを言ってしまっているかもしれないが、

この「いろいろなレヴェルの、いろいろな角度から」というのの一例が、先の酒井氏の「科学者の氏名」の話に当たるような気がしたので、ちょっと引用してみた。


さて。

「科学は人間の営みだから、科学者の名前を覚える必要がある。」

この言説を、もう少し私なりに噛み砕きながら読んでみたいと思う。

その前にいちおう、前提となる著者の考えを紹介しておくことにする。

オリジナルが語る物語

ページ6には、次のように書かれている。

(教科書は、)同じ結論が述べられていても、発見者がそれに、どのようにしてたどりついたかを如実に示している原著のおもしろみや価値に比べれば、ハイウェイをドライブする楽しみと、前人未踏の地を探検するスリル満点の愉快さほどの違いがある。

ここで出てくる「原著」というのは、原著論文に限らず、その人自身が書いたその人自身のことばを指していると解釈すると、「教科書」との対比が映えるだろうか。

ここで教科書について、酒井氏が特に注視して与える属性は、「すでにできあがっているものを、読者になるべく理解しやすいように説明する」というものである。

原著と比較すると、教科書に欠落しているのは「発見者がどのようにたどりついたのか」の部分であることは読み取れただろうか。

無論、「全ての教科書がそうだ!」という話ではない。

筆者自身の高校時代の科学の教科書を思い返してみても、コラムのような小さな項が設けられることはあっても、

例えば、山本義隆「熱学思想の史的展開」やら髙林武彦「熱学史」のようなレベルで本のページ数を割いて、有名公式が発見されるまでの経緯を書いたものは、教科書で見たことがない。

高校生向けの参考書にしても、そういった側面に触れるというよりは、ただただ受験に向けた実用性に一直線に向かっていくような内容だけを凝縮して書かれていることが多いので、話は大差ないだろう。


さて、ここまでで原著と教科書には決定的な違いがあること、そして

原著には、オリジナルとしての良さがあることを見てきた。

以下、私の考えを述べていきたいと思う。

文脈を抜かれ、骨抜きになった知識

教科書は、原著の内である意味エッセンスの部分だけを抽出したものである。

そこに、これまでの知見を基にした体系を骨子として組み入れ、後学の徒に理解されやすいように、という一心で教科書が編まれる。

ところで、大学の授業で今年の前期、大学の教職課程の講義をいくつか受講したので、こと「理科」に関してはある程度ものが言えるようになったと自負している。

といっても、未だ「実地戦闘」(まさしく、生徒との戦争だ…)を経験したことはないので、本当にものを言っていいのか若干の躊躇はあるが、

理科教育での問題意識のようなものは、部分的にではあっても学ぶことができたので、多少は信ぴょう性もあるだろう。

そんな私から言わせると、「主体性」やら「対話」を重視する割には、教科書は一向にそのようになっていないように思われる。

無駄に文字や図をカラフルにしたり、「イメージ図」と称して、電位と滝のイラストを合わせて描いてみたりする。

別にこれ自体が悪いわけではない。

子どもが絵本を大好きなのは、文字ばかりのものよりも「読みやすい」からである。

この例については、そもそも本を楽しむというのが肝要なので、文字だらけで意気消沈してしまっては本末転倒だ。

これと同じで、教科書も、(本当は好ましくないが)よく分からないけど読んでいて楽しい、というのを重視してしまったのだろう。

文字ばかりにして、そもそも教科書の内容に全く目を通してくれもしない生徒が増えるよりかは、イラストを載せて関心をさらい、少しでも表紙をめくってほしいという狙いがあるのであろう。

しかし、前チャプターでも書いたように、肝心の「発見」の歴史的経緯については全くの敬意が払われずにいる。

ビジュアル重視に走りすぎ、中身がお粗末。

それがいまの教科書に思えてならない。

ここでは、話の流れ的に「歴史」ということばの重みを借りて説明をしてきたが、その真意は伝わっているだろうか。

教科書よりも、原著を読め。

という話があったのは記憶に新しいだろう。それを思い出してほしい。

教科書には、「研究者がどのように(その発見に)たどりついたのか」があまり語られない、と書いた。

換言すれば、教科書の内容の大半は、文脈から強引に切り離された代物なのである。

人間は何か新しい情報を得るとき、既に自分が持っている知識から入っていく。

だから、同じ情報に触れているようでも、その受け取り方―即ち記憶と呼ばれるものは、全くの別物になってしまっている。

(余談だが、心理学の講義を取った時の話だが、人間はほんの一瞬ならば目の前に見せられた許容範囲内のチャンクならばすべて覚えていられる、といったようなものがあった気がする。だが、いざ何を見たか、言語化しようとすると口をついて出たものだけが選択的に脳に残り、あとのものは忘却してしまう、というのである。面白い話だ。)

文脈から切り離された情報を、子どもが受容できるのだろうか。

途端に内容が抽象度を増す高校生の理科を例にとれば、

中学の時点では、指導要領に「日常生活に照らしながら」(だったかな?)と書いてあるように、身近な話題から発展させる形態を取らせようとしているのに、

高校に上がった途端突然、数式やら化学式やらプレート移動やら、自分のこれまでの想像力では到底持ちこたえられない題材が、怒涛の波となって押し寄せる。

怒涛の波になるのは、なにもカリキュラムが詰めゝで指導要領通りの時間配分では太刀打ちできない、というわけではない。

それよりも、文脈を度外視して、とにかく「分かる」よりも「知る」ことを優先して、とにかく「いま、目の前にある」知識を詰め込むことを第一にする。

ここに、全ての元凶がある。

無理でしょう。だって、そもそもが自分の中には無い全くの「異物」を、しかも主体的にではなく、能動的に取り込まされる。

これで「分かる」ようになるなら、その学校の生徒さんは皆、きっと今ごろ東大生でしょうよ。

現状はそうではなく、そもそも大学進学を「学力」的に諦めてしまう人も一定数いる。

「自分には勉強は不向きだ、と投げ出して、学校での学びが終わったらもうそれっきり。生涯学習なんて、政府の陰謀か何かだ。」

なんてなった日には、もう目も当てられない。

そりゃ、誰だって「不向き」だと思うだろう。

何事も自分のペースでやるから上達する。それを乱されれば、誰だってできずに落ち込む。


話が少し脱線した。

「分かる」ことは大事である。

なぜならそれが意味するのが、目の前にある知識を単に試験をしのぐために詰め込むのではなく、「なんでこうなっているの?この式はどっから出てくるの?どんな発想があったらこんな説出せるん?」と吟味する行為だからである。

主体的、だとか「科学的なものの見方」だとかいうのは、こうした子どもたちの側の好奇心があって初めて成立するものだろう。

いまの教科書は、それを度外視しているように思える。

ここでようやく冒頭の話題に戻ってくる。

なぜ、(著名な)研究者の名前を覚えるのか。

それは、こういった好奇心の一環として、自然と獲得することが期待される知識だからである。

科学は人間臭い、というような話もあったが、平たく取れば研究成果の取り合いのようなものがある。

が、上のような意味で取ってみてもこの表現は非常に正鵠を射ているのではないだろうか。

大事なのは、こうして自分の「知りたい!」から出発した思索・探究の中で得た成果物は一生ものである点である。

単に教科書から抜き出して、異物としてそのまま埋め込まれた知識の数億倍の定着率であることは疑いようがない。

そういった思索・探究ができているかはかる上で、研究者の名前を出題するのは納得できると言えそうである。

まとめ

教科書から得られる知識は相当一方的なものであり、そこからでは学習指導要領が目指すような「科学的なものの見方」やら「主体性」やらは身に付きづらい。

代替策としては、その行間を縫うようにして、「どうしてこの説に行きついたのか?」といった、教科書では(ページの関係上)語られないストーリーを自ら探りに行く精神が肝要になるだろう。

これによって初めて、私たちは学習指導要領が大好きな抽象的なことばに具体的な輪郭を描き出すことができるのではないだろうか。






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