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「一般的観念=偏見」は、言葉を”喋れなく”する

日常の中の形容詞

私たちは、普段から何気なく形容詞を多用して生きている。

形容詞無しでは生きていけない、というのは決して過言ではない。

カテゴリ①「青い」空、「速い」車、「カラフルな」食べ物、etc...

こういった表現は、当然ながら「」の中身を消し去ると意味内容の伝達に著しい支障をきたす―「空/車/食べ物がどうしたの?」と思わず問い質したくなるように。

というのは実は余談です(*'▽')

ここで注目したいのは、こういった形容詞には言外に「そうではないものもある」が(意識的かは置いておいて)含まれているということ。


さて。

ここでこれらの形容詞と対比するように、次のような形容詞を見てみよう。

カテゴリ②「優れた」人種、「良い」アイデア、「完璧な」スタイル、etc...

先ほどの、言外にあるニュアンスにここで再注目してみる。

②―優れていない人種、良くないアイデア、完璧ではないスタイル……

一方で、カテゴリ①の形容詞についても考えてみると…

①―青くない空、速くない車、カラフルではない食べ物

①と②と、どちらのカテゴリの方により刺々しさを感じただろうか?

勿論、これは個人の感受性の差異があるわけで一概に言えるものではないが、②の方を上げる人が多いのではないだろうか–少々意図的なワードチョイスだったかもしれないが…。


ここで、私が二つに分けたとき念頭に置いていたのは、

カテゴリ①→「状況描写」の形容詞

カテゴリ②→「評価」の形容詞

という感じのことだった。伝わってたか、いまいちピンと来ないが…。

殊、評価という感性的な仕事の領域に足を踏み入れると、どうやら形容詞はその鋭利さを増すらしい、ということにここでは気付いてもらいたい。


言葉は限定付きの符号

前項で触れた<形容詞>は、<言葉>というものに包含される部分集合に過ぎない。

この項では、<言葉>が持つ性質を見ていきたい。
―といっても、無数に挙げるわけにもいかないので、ここでは”符号”としての役割に絞る。

ということで、以下の説明文を読んでそれが何についての説明なのか当ててください。

ぶよぶよしたゴム袋で、ある一箇所から息を吹き込むと大きく膨らんで、その口を塞ぐとぽんぽんと軽やかに跳ねる、球体状へと変化するもの


どうですか?


答えは、「風船」。

風船、という一語が存在しない世界では、これだけの情報量でようやく、私たちが風船と呼ぶものの概要を言い得た、と評することができる。

つまり、言語の符号化というのは、「限定された文化的コンテクストを共有する人々の間でだけ」五感(ときには第六感も?)から得られた情報をコンパクトに収めておくための技術を言い表している。

この符号化の役割と合わせて、この符号はそれが使われる状況に合わせて一対一に対応しているということを忘れてはならない。さもないと、私たちの喋ってる言葉はめちゃくちゃ支離滅裂になる。

どういうことかというと、これは輸入された単語とかで見てみるとよく分かるのだが

日本でいう「マンション」は、アメリカでの「mansion」に一致しない。

これはなぜかというと、理由は単純明快で、”使われる状況に合わせて”の部分が抜けて一対一の部分だけが独り歩きしてしまってるから。

項のタイトルに”限定付き”と入れたのも、そういったコンテクストを度外視できない事情を加味してのものでしたっていうことで、愈々本題に入っていきたい。


一般的観念が偏見だと言い切ることの危険性

あなたの目の前に、尻尾が千切れたネコがいるとする。

そしてあなたは、これは「完全な(完全ではない)」ネコだと友だちに告げる。

すると、それを傍から見ていたおばさんが割って入って、次のようにたしなめてきた。

「不完全なんて言い方はよしなさいよ。それはあなたが知ってるネコのイメージとは違うだけで、あの子(尻尾の千切れたネコ)はあの子で完全な生き物なのよ」


このおばさんの台詞が孕んでいるのは、言葉が符号化した対象というものは、その定義者によって恣意的に選出されたものだ、という指摘であろう。

どういうことかというと2節で説明したように、あなたが「ネコ」という符号に対して一対一に引き出してくる五感の情報は、「時には毛がモフモフしていて、歯や爪が鋭くて、尻尾が生えていて、眼光も鋭くて、ニャーニャー鳴いて、etc...」みたいな感じだろう。

で、そのうちの「尻尾が生えている」という情報が欠落しているから「不完全(完全ではない)」という形容詞を持ち出してきたわけだ。

更には、1節で触れたように、こういった評価の形容詞は言外に「そうではないもの」を言い含めているという話があった。

ということは、あなたは(無意識にも)「完全な」という言葉の意味を、「一対一対応がきちんととれた情報との整合性がある」のように、広く受け入れられている言葉の定義に準じて理解していたということになる。

しかし、このおばさんはそうではない。

「完全な」という言葉を、対象に合わせて変容させて用いているのである―「対象が存在している」のように。
つまり、符号の更なる符号化乃至符号の再定義を行っているわけである。

この行為は無論、文化的コンテクストからは遠ざかるものである。

それが意味するのは、オリジナルの恣意性からの乖離であると共に、自分の価値基準に基づいた恣意性の産生に他ならないばかりか、文化からの自主的脱退である。

結果として、当人は同じ言語を喋っているつもりでいても、周囲の人々にはやがてその意味は伝わらなくなり、一度オリジナルの恣意性に気付いたあのおばさんは、やがて母国語を「喋れなくなる」。


(追記)

Twitterの方にも書いたんだけど、イメージとしては

「令和の現代っ子が使う日本語で、高度成長期の日本人と会話してください」

って言われても、なんか齟齬が生じるよねっていう話が良いと思う。

「わんちゃん」とか絶対、通じない(*'▽')

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