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科学基礎論としての公準

§0. はじめに

GWも迫ろうかという時分、研究テーマは決まっているけれども、そもそも基礎となる部分の勉強を相当おざなりにしてきたので、その勉強に追われている。
←その様子は、twitterで「#まいにちけんきうしつ」のタグで発信している(恥晒し)

今日も今日とて、微積分学(解析学、とはとてもではないが言えない。純粋数学のような高尚なものをやるつもりは毛頭ないので、応用数学という意味合いでこう呼ぼうと思う)のための本を物色しに、大学図書館に行った。
すでに、高木貞治先生の「解析概論」は手元にあって、それの行間を埋める目的で本を探しに行ったわけだ。

そこで、たまたまE.T.ベルの書いた「数学 科学の女王=科学の奴隷」という本の1、2巻が置かれていた。ベル、というとアメリカで電話線を引いたベルか、Bellの不等式のベルがふと思い浮かんだが、この本の筆者であるところのベルはどちらでもなかった。
もう絶版なのかはわからないが、古本屋のサイトで検索してみると、古書ではあるが4000円と、新品の本と変わらない値段だった。ということで、金欠大学生の私は、二の足を踏んだ。

それはさておき、いま借りてきて3章まで読み終えて区切りがついたので、その内容をまとめておこうと思う。

以下読む際の注意ですが、地の文については全て私の意見です。引用(背景がグレーの文)については、E.S.ベルの意見です。区別のうえ、お読みください。よろしくお願いいたします。

§1. 公準とは

化学の文脈では「法則」、物理の文脈では「原理」のようなものが、数学でいう「公準」(公理)にあたるだろうか。
しかし、これは全くもって自明のものではない。ベルは45ページで次のように書いている。

公理は必ずしも「自明」とは限らないし、また「それは真か?」と問いただすべきものでもない。公準は与えられるのである。公準は議論なしで受け入れられるものである。公準についていえることは、ただこれだけである。

E.T. Bell, 東京図書, 「数学 科学の女王=科学の奴隷 (I)」, 1972初版(以下同)

また、上で「自明」という言葉に鉤括弧がついている。これについてもベルは注意書きを入れている。

自明とされていた事柄があらゆる側面からくりかえし吟味され、その結果それが誤りであることが判明した場合もたびたびあった。「自明である」は数学においてはもっとも危険な言葉である。

高校生の頃から、何かと先生からは「自明である」を使うのはやめろ、と言われてきたのを思い返した。

さて、公理と言われたとき、最近の私の勉強で思い出すのは「線型空間の公理」や「内積の公理」である。
前者は、好き勝手に集合の中に演算(構造)を入れて「空間」をつくっていいけれども、それが「線型性linearity」という数学的によろしい性格を持つために満たさなくてはならない7つの公理(ルール)をまとめた公準系であろう。
後者は、上の公理で設定された線型空間において許される演算からつくる「内積」と呼ばれる演算において満たしておいてほしい性質のことをいう。私の専門の文脈では、無限次元のL2ノルムが半正定値の公理条件を満たしていてくれないと、そもそもBornの確率解釈に沿わなくなってしまうので、たしかに必要といえば必要だ。これは、3つの公理からなる公準系といえるか。

少し説明が長くなったが、いずれにせよこれらのルールに対して「なぜ?」を問うことはしなかった。もっともそれは「定義」として与えられていたから、という節もあるかもしれない。特に、内積については高校時代に習うベクトル内積だけではなく、複素関数の内積など様々なバリエーションがあってよいのだが、必ずそれらは先に示した3つの共通項を持っていないければならないのである。
別に、これに必然性を感じることはない。結局、ただ「定義」として受け入れてお終いだ。ましてや私の専門は応用数学の立場なので、そういった用語の定義について厳密に議論するようなことをしたくない、というのもあるか。物理化学屋としては、どこかで実験事実に反したときに立ち返るのがせいぜいである。

これについては、この前受けていた講義で、理物の近藤慶一先生も同様のことをおっしゃっていたように思う。最もcriticalな部分についてはそもそもきちんと議論しておかないと端から間違ったことになるので、そこら辺についての注意はきちんとしよう、とのことだった(演算子の自己共軛性の文脈で)。

また、ベルもこれに似たことを夭逝したAbelの言葉を引用してこのように記している。

専門的な数学者でない者が、現代数学を深く立ち入って研究することは時間の浪費であることを認め、おおまかな展望で満足することにしよう

ということなので、応用数学者の面々は、あまり深いところまで詮索することは辞めにしましょう。なぜならば、それを突き詰め出すとキリがないからです。というのが大体3章分通して私が強く受け取ったメッセージである。

それを示す端的な例は、以下の通りである。

もちろん6+8も8+6同じ結果を与えるし、またもちろん6×8も8×6同じ結果を与える。
しかしこのことは「もちろん」ではない。このことは証明できるのだろうか?それはある意味でできる。ある所までで打ち切って、ある命題は証明なしで認めることにすればできる。

半年に一回くらいtwitterで話題になる「掛け算の順序問題」なんてのは、この格好の例であるように思われる。要は、(応用の観点からは)気にするだけ無駄、ということである。
別に、どっちから掛けようがまったく同じ答えを返すとして、今までの生活で矛盾が出たことがないのだから、それでいいように思うのは私だけではないはずだ。

§2. 公理の適用限界とDeus

前節で、公準とはどのようなものなのか。若干哲学チックな話としてまとめが終わった。
この節では、いよいよ自然科学との関わりでこの議論をしていきたい。

先に、少し「法則」や「原理」という言葉を出したものと思う。これを数学における「公準」と同等の物言いと捉えるならば、ベルは次のようなコメントを遺している。

もし造物主が、この純粋数学者がした程度のことしかできないのだとしたら、宇宙はまったくあわれな状態にあることだろう。
科学者や哲学者や神学者が建てた宇宙についての公準系に至っては、これはもう言わぬが花であろう。

高校の物理の最初にやる力学は、この好例であろう。
Newtonの運動方程式を認めれば、日常的な世界(慣性系)の物体の運動については時間発展を含めて正確に記述することができるというのである。

では、そのNewtonの運動方程式は、どこからきたのか? その問いは、この学問体系において全く意味を成さないのである。
自然現象を無矛盾に説明できるからそれで良し、というのが暗黙の了解である。

この論理展開がマズい、というのでは勿論ない。(もっとも、私はF=maがどうして成り立つのか「分からず」物理を履修せず、生物を勉強したのだが…)
大学に入れば、「作用S」を考えて、それが最小になる(変分原理)を用いてLagrangeの運動方程式というものを習う。これを用いると、ある意味でNewtonの運動方程式が「導出」されたとも言える。
しかしこれは、あくまでどこを議論の出発点にするか、という違いにすぎない。但し、Lagrangeの運動方程式において、Newton力学で位置や速度と言っていたものは全て一般化された座標として理解されるため、そういった点での「優劣」(分野による扱いやすさ)はあるかもしれない。

以上の話は、物理に限ったようにも思えるが、熱力学の恩恵を受けて化学の色々な説明が成り立つので、結局自然科学全般において、上のような問題意識が通用するものと思う。
しかし、やはり力学においてその無意味さを確認したように、もっとも根幹にある学問原理に疑問を投げかけるのは、全くもって労力の無駄であろう。なぜならば、ある公理系の下に設定される議論はすべて、現在認められている自然現象をうまく説明するからである。

破綻が見つかったら、修正を行うのである。Newton力学においてあまりにも速く運動する物体を扱うことはできなかった。また、原子のような非常にミクロな世界においても古典力学は通用しなかった。そのため、(特殊)相対性理論や量子力学が誕生したと解釈できる。
最近では、Hermite性を使わない量子力学が興っているとのことだが、どういうものなのだろうか。

このように、絶えず修正を重ねていくのはあらゆる学問における性である。
こと自然科学についていえば、それは上に述べた自然の公理化が不完全だったからといえる。
つまり、我々が公理として認めていたもの−つまり議論の大前提として俎上にすら無かった事柄−に当てはまらないものをふと我々が「発見」するのは、それは私たちの自然観が不十分であったことを意味するのである。

神学に頼るつもりはないが、自然の摂理の裏にある、私たちがまだ知らない美しい体系を「造物主(Deus)」と呼ぶのならば、私たちはこのDeusに対して最大限の敬意を表すべきであろう。

なぜならば、私たちが観測・解釈することのできる自然は、絶えず私たちに新しいものの見方、知の体系を与え続けてきた良き嚮導者であり、その自然を構築しているものこそDeusだからである。

§3. まとめ

前節の姿勢を簡単に云うならば、我々は研究しているのではなく、研究させてもらっている、という謙虚さに尽きるだろう。

そしてその気持ちの萌芽は、公理は全くもって自明ではなく、適用限界の可能性を認めることにある。つまり、必ずしもいま見ている現象が画一的なものの見方(体系)で語れるとは限らず、場合に応じて随時更新されていく、極めて流動的な概念として公理を認識しておく心持ちにあるといえるだろう。

今まで認めていた議論に誤謬が生じたのならば、それはDeusから私たちへのメッセージである。
それを受けて、私たちはその分析をする。もしかしたら「自明」としてきた公理が間違っているのかもしれない。そうして科学は極めて漸進的に発展していくものだと思う。

科学に万能性を求めてはいけない。それは、Deusに対する謙虚さを欠いている。私たちが「自然科学」と呼ぶものは、極めて分節化されたDeusの一部分に過ぎず、故にこれは限定的である。万能とはほど遠いのである。

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