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自慢

仕方ないことかもしれないけど、老母(89歳)が、自分の過去の自慢を介護のために来宅してくれる包括の方に長々としてしまい、まいった。

彼女がサラリーマンの妻として、自分のアルバイトで家計を支えた部分もあるのは事実ではあるが、家計の切り盛りとか、世帯収入という概念を無視して身内から呆れられ、禍の種を蒔いていたことも事実だからだ。

老母は俗にいう「毒母」であり、色々いいたいこともあるが、世間的には独身で低収入で子どももいない私の方が分が悪いので、いっても空しいのだが、これだけはいいたい。

自分の考えの浅さや道楽で家計を潰したのは亡父も老母も同じくらいなのである。まあ、詳細は今日は省く。家庭の損ですんでいるからね。

しかし、介護のひとを送り出してから晴れ晴れとした様子で「ああいうひとにしか自慢はできないからね」と母がいったのには呆れた。

自慢はいけないのである。なぜなら人は相対的な存在だから、生きていれば多かれ少なかれ自慢をしてしまう結果になるものだからである。自己卑下だって自慢のひとつである。

多少なりとも「自慢」の類いが許されるとしたら、その披瀝の仕方で「自慢」の被害にあっている相手に利を成すことができる(面白がらせるとかためになるとかなど)場合であろう。

確かに介護職のひとは老人の話しを聞いて仕事にしている。しかし、今は貧しくなってしまった老人が過去の話しを色々自慢するのは、ましてや、側でメモを取っている私にも振ってくるのはつくづく退屈だと思うし、私も母の自慢の飛沫を浴びたくはない。

私は母にいわせると「子どもがいないひとって死ぬのも気楽よね。だって誰も悲しむひとがいないもの」の「子どもがいないひと」でもあるのだが、他人のことを馬鹿にしつつ自慢もしているその姿勢は有体にいってはなはだ不愉快である。

とはいえ、私なりの意見などいうと、泣き叫んだり、つかみかかったりしてくることもある母であるから、今となってはある程度まで「ケア」として責めないようにはしている。

しかし、介護職のひとはほんとうに大変である。今日、愚母の自慢につきあってくれた職員さんに感謝してもまたは謝っても、足りないと思う。

にんげんは排泄しなくては生きていけない。それはわかっている。私も治療のために麻酔をかけられたときに、しょうもないことを赤裸々に自慢したと医療関係者の方からいわれたことがある(その看護師のことは嫌いになったよね)。

「自分の前でラッパを吹いてはいけない」という言葉を幼稚園で習ったとき、「ラッパは背中で吹く?」というか違和感を覚えたものだが、あれはわざと譬えで幼児に教えて、大人になってから思い出すように仕組んだものだったのだろう。

人間は自分の前でラッパを吹いてしまう(つい、調子にのって自慢話をながながとするとか)性質をもっているものなのである。母に今日教わったことである。

まあ、仕方ない。

世の中が介護職のひとの待遇をよくできるように、少しでも心がけようと、文無しではあるが、心に刻んだ。

ぱなせあつこ

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