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【ネタバレ有り】シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| 映画感想

シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| を見てきた。胸がいっぱいになって、言葉と言葉未満のものが溢れてきた。感じたことをそのまま、友人たちとビールを飲みながら深夜まで、明け方まで話したかった。でもコロナの環境はそれを許してくれないし、自分もそれをやるには歳をとり過ぎ、肉体的にも社会的にも翌日のダメージが気になってしまう、気にしなくてはいけないくらいの大人になっていた。その熱はどこにも行けなくて、だからここに置かれている。

未公開シーンが開始してすぐ、「これはエヴァンゲリオンの物語に出てきたキャラクター達それぞれに結論を与えて、収斂させる為に作られた作品だ」と感じた。終わらせる強い意思と、見た人に終わったと感じてもらうために力を振り絞っていることがとてもシンプルに伝わってきた。TVシリーズから出ていたキャラクターは、その一人一人が自分である、というのは監督自身がインタビューでよく言っていたことだ。TVシリーズで、キャラクター達はそれぞれに、いまその時、どんな思いを持っているかを表現していた。その表現は非凡なクリエイターの鋭い観察眼と自身への内省を感じさせるもので、沢山のキャラクター達の心情は的確に僕らに伝えられ、しかしその後にみんな弾けていってしまった。思いは弾けると共に、どこにもたどり着かずにそこで終わっていた。そんなTVシリーズが放映されて、そこから長い時間が経った。長い期間を経て映画に登場してきたキャラクター達は、その時の思いが弾けて終わらずに、皆が映画を待っていた期間、人の中で成熟したらどのように昇華され、どのように着地していくのかを表現していた。監督の中のピースの一つ一つが、時間の経過によってどう変わっていったのかを(監督のインタビューなどになぞって表現するなら)「パンツをおろして」描かれていた。

みんな大人になっていた。トウジは昔のようにおせっかい焼きで、でも自分の思いが届かなくても相手のことを許す父親になっていた。ケンスケは昔のオタク気質はそのままだが、家族との別離をきっかけにそれまでの他者への興味の希薄さを悔いる経験をした、年少者に対する振る舞いを弁えた一人の男になっていた。委員長は正論を押し付けない母となり、ミサトさんは勢い任せは変わらなさそうだけど、自分の責任について痛みと共に考えたことのあるリーダーになっていた。

TV版の時にいなかった「ちゃんとした大人」達に囲まれる中で、時間経過を共有していなかった綾波は世界を知り、シンジ君は映画の中でも長い時間をかけて、登場人物のうちでも一段とゆっくりとしたペースで、自分で自分の落とし前をつけて先に進んでいく青年になっていった。

25年前に表現された色んな感情の延長が描かれていた。ひたすらに、人間の成長を描いていた。色んな形の成長が、丁寧に描かれていた。そんな成長を可能にした、そして成長せざるを得ないぐらいの長い時間を僕らが過ごしたことが描かれていた。僕は、この儀式によって、あのとき理解した感情の先の納得をようやく得ることが出来た。

僕はライムスター宇多丸さんの映画評論がとても好きで、その中でも、彼がよく主張している「フィクションは、そのフィクションの世界・ルールの中でリアリティを示さなければいけない」という趣旨の主張が好きだ。エヴァの舞台装置はもちろん壮大なフィクションで、今回の映画の構造にはメタ的な部分を多分に含むが、その中のキャラクター達はみんなリアリティを勝ち得た大人だった。そして、そこにリアリティを感じる自分自身ももう大人であることを、一抹の寂しさと共に教えてくれた。「現実に帰れ」なんて言葉で突き放すことはもうなかった。ただ、ひたすらに対話をしていた。伝えるために言葉を尽くし、技を尽くしていた。

思春期にシンジが好きだったアスカは、その後の別離によって思いを伝えることなく、時の流れとともに大人になっていっていた。時間の経過と共に、思春期の気持ちを解釈し、シンジの好意の表れであった弁当の意図を理解し、その気持ちを覚え、感謝を伝える大人になっていた。自分の過去の感情を、今はないけれど過去にそこにあったものとして伝えることが出来る大人になっていた。

成長したシンジは、過去の好意を伝えてくれた相手に対して無条件に甘えるでも依存するでもなく、その好意が今は形を変じている事に憤るでもなく、好意の存在自体に感謝を伝えることが出来る大人になっていった。時を経て自分を取り巻くものが変化し、そこには望まない変化が多く含まれていたとしても、時間を戻したり、書き換えたり、という子供が抱く魅力的な選択肢を夢想せず、次に進む青年になっていた。思春期に依存した無垢な少女や、共依存した美しい少女と結ばれなくても、その時の思い出を抱きつつ、胸の大きな魅力的な新しい女性との出会いに惹かれることが出来る大人になっていた。惹かれてもいい。一つ一つの出会いにケジメをつけて、未来にまた、これまで全然因縁がなかった素晴らしい人々と会って過ごしていくことは、とても当たり前のことだ。好かれたい人全員に好かれなくても、思い通りになってなくても、経過した時間に意味はあり、その時間にケジメがついてもそこから人生が続いていくという当たり前を、自然に、当たり前に伝える為に時間がかけられていた。

凄く綺麗なラストだと感じた。大人になったシンジとマリのストーリーを、また何かの機会に知りたいと思った。べったりくっついて見ていたい訳ではないけど、何かのタイミングで、彼らが人生をどのように謳歌するのか見てみたいと感じた。でも、それはもう見られないのだと、映画はとてもクリアに伝えてきていた。エヴァンゲリオンという、愛おしい世界の物語は、その世界の中では終わらず続いているけど、それを映すカメラが、庵野監督が、その世界から退場することを最後のフェイドアウトで伝えてきていた。

もう十分だった。とてつもない寂しさと、この寂しさを感じるような時間を過ごせたことへの充足感、そしてきっとまた素晴らしいことが待っているという予感。ケジメがついて、また始まっていく。だから、キャッチコピーについていた「さらば」はとても自然な言葉だと思った。

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