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スワンプマンと死男の同一視の妥当性を評価する【思考実験スタジオ】

思考実験スタジオでは

思考実験とは哲学的な問いについて、空想上のストーリーを使って、どう解釈するのかを議論するものだ。
もちろん、答えのあるようなものではないが、論理的に筋の通っている解釈の方が好ましい(面白い)。

思考実験を解説しているサイトは、数多くあれどその解釈について個人的な意見を述べている人はあまり多くない。
思考実験スタジオでは、あえて筆者がポジションを取って持論を述べていく。

もちろん異論があれば聞いてみたいし、異なる意見でも似たような意見でも良いので、洗練された解釈に目に書かれれば本望だ。
これを機に思考実験について本気で考えてみて、#思考実験スタジオのタグで投稿してもらえると嬉しい。

なお最初に断っておくが筆者は哲学は素人であるため、専門家向けに書かれた記事ではない。
ただその分、専門家にしか理解できないような小難しい言葉や論理式は使っていない。
鋭いツッコミは歓迎するが、専門的な見解や学術的な前提は持ち合わせていないため、その点はご容赦いただきたい。

スワンプマンのおさらい

ある男がハイキングに出かける。道中、この男は不運にも沼のそばで、突然雷に打たれて死んでしまう。その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。なんという偶然か、この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。

この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。スワンプマンは原子レベルで、死ぬ直前の男と全く同一の構造を呈しており、見かけも全く同一である。もちろん脳の状態(落雷によって死んだ男の生前の脳の状態)も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一であるように見える。沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿でスタスタと街に帰っていく。そして死んだ男がかつて住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/スワンプマン

記憶と行動が結びつかない人間であることが問題の本質

全く同じ物質でできた沼男は、死んだ男と全く同じ記憶や人格を持つが、この2人は同一人物と言えるのだろうか?

スワンプマンと死んだ男の決定的な違いは、過去の行動を持っているか否かにある。
通常の人間と比べてスワンプマンは、記憶や人格に対して、過去に起こした行動が紐づいていない。

スワンプマンの問題の本質は、記憶と過去の行動が結びついていないことにある。
その記憶を正当なものとして判断することに、どれほどの妥当性があるのかが問われていると考えている。

行動とは記憶や人格の具現化である

人が他人を評価する時、行動を見ることでその人物の記憶や人格を推測する。
要するに、記憶と人格は行動を通じて外部に現れ、その行動が評価されることでその人物の記憶や人格が推測される。
なぜなら他人の記憶や人格を直接覗き見ることはできないため、行動から記憶や人格を推測して評価するしかないからだ。

※[補足]長くなるので記憶や人格という言葉にまとめた

判定したい評価対象として、他にも能力や血筋等もある。
能力は経験則から得られる賜物であり、記憶と同類の扱いとしている。
血筋等によって受ける扱いは、他人から相対的に見た人格の違いであるため、人格という言葉でまとめている。

「行動」とは「記憶や人格」の評価の手段であり、対象ではない

人は、社会的な規範や文化、状況を加味しつつ、相手の行動を見定めて、人格や記憶に対して日々(無意識に)判定を下している。
つまり行動そのものが重要なのではなく、そこから推測される記憶や人格が重要でなのである。
例えば、偶然に人命を救った人物と、意図的にリスクを冒して救った人物とでは、その評価は全く異なるだろう。

そして人は推測した記憶や人格をもとに責任や権限を与える。

この物語の観察者としては「同一人物」が結論

それを踏まえてスワンプマンは死んだ男と同一人物なのかという問いに答えると、「同じ」である。

なぜならスワンプマンは死んだ男と全く同じ記憶や人格であり、スワンプマンが取る行動は死んだ男が生きていた場合に取る行動と一致するはずだからである。
さらに他人が行動を評価する理由は先に述べた通り、記憶や人格を推測するためであり、行動が全く同じである以上、スワンプマンは死んだ男と全く同じ評価が下されるからである。
したがって、スワンプマンには死んだ男と同じ責任や権限が与えられるべきである。

物語の観察者ではなく登場人物の立場に立つと…

しかし、スワンプマンの物語の登場人物としてスワンプマンの存在を評価するのであれば全く話は変わってくる。
物語中は、死んだ男が発見されない。
そのためスワンプマンが死んだ男と入れ替わっていることが、そもそも当然気付かれない。
そのため登場人物から見て評価も何もないのだが、スワンプマンをスワンプマンと知ってしまった時、どれほどの戦慄が走るだろうか。

先ほど出した結論は、以下3点の理由から現実的に受け入れられるものではないだろう。

  1. 物語の観察者として、スワンプマンと死んだ男が全く同じ記憶と人格であることが前提事項として確定している。
    しかし現実にはスワンプマンと死んだ男が全く同じ記憶と人格であると論理的に納得できる要素がない。

  2. スワンプマンの物語では元の男は死んでしまったが、もし生きている場合に二人とも全く同じ権限や責任が与えらえれると、社会として混乱してしまう。

  3. スワンプマンが沼から現れた人間だとすると、その生き物を自分たちと同じ人間とみなすのは、生理的な嫌悪感を示す可能性が高い。
    この点は論理的な解釈ではなく感情論であるが、感情的な納得感は判断に大きな影響を及ぼす。
    感情的な納得感が欠如することで、論理的に正当であっても社会的には受け入れられないケースがある。

現実には様々な状況や背景が存在するため、スワンプマンの物語・状況に絞って出した結論は、現実に適用が難しい。
現実に同じことが起きると、世間には公表されずに全く別の男としてある程度の人権を与えられながら、政府の研究所を往復する日々となるのだろうか。
さらに何度もいろんな人物のスワンプマンが発生してくると、また話は大きく変わってくるだろうが…。

意識の連続性についての補足

また、スワンプマンには意識の連続性などの他の論点も多々あるが、そもそも現時点で「意識」とは何なのか解明されていない。
その中で仮説に仮説を重ねても議論が進まないので、ここでは取り扱わないことにした。
意識の連続性は、間違いなくスワンプマンと死んだ男を同一視するかどうかの核心にあるが、この問題は別途検討が必要だ。

いずれ意識についても考えをまとめて持論を展開したい。

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