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「むすびや」のおむすびとうちのおにぎり

穂高明さんの『むすびや』を読み終えた。

心優しい主人公が、両親のやっているおにぎり屋さんで働きはじめて、色んなことを学び成長していく姿が周りの人の成長と一緒に描かれているお話である。

この本を読んだ後は、本当に手作りのおむすびやさんに行きたくなってしまうようなそんな本。

おむすびというとなんだか、ちゃんとしたお料理のような響きがあるけれど、おにぎりというと一転して家庭の味に思えるから不思議だ。
この本の中でも触れられていたけれど、「おにぎり」と「おむすび」は同じものを指しているにも関わらず、違うニュアンスを含んでいるように思えるのはなぜだろう。

最近では、おむすびやさんがあちらこちらに出来ていて、具材も色々あって目移りしてしまうのだけれど、やっぱり白いご飯に海苔が巻かれたものは、私にとって母が作ってくれた「おにぎり」の方が強い。

私の母は、料理をするのが嫌いである。
レシピ通りに一通りのものを作ることが出来るから、レシピ通りに作ってくれた時は普通に美味しい。

ただ、それさえも面倒らしく。味見もせずに適当に済ますので、母の手料理を食べると「…。」というリアクションにいつもなってしまう。

そして、お米も、炊飯器は洗うのがめんどくさいという理由で、土鍋で炊いてくれるのだけれど、いつもお水が多くなってしまう。

何十年と炊いているのだから、ちょっとはうまくなってよって文句を言いたくなってしまうのだけれど、おかしいくらいに上達しない。

そのせいで、いつもお米はご飯とお粥の中間位のやわらかさを保っている。
すなわち、大分やわらかい。

柔らかくなってしまったご飯は、捨てるわけにはいかないので、それが「おにぎり」となる。

そもそも、やわらかいのを握っているため、「ご飯粒が立つ」とか「お米がふっくらふんわりしている。」なんて表現は一切出てこない。

ラップに包まれていても、手が汚れるし、不格好なこともあって、人前で食べるのがはばかられる一品である。

ここまで書いたらお気づきかと思われるけれど、正直美味しくない。
はっきり言って、おにぎりなのにまずい。

ただ、自分にとっての「母の味」ってなんだろうなって考えてみると、どうしてもべちゃべちゃのおにぎりが浮かんできてしまうのである。

私は、そのおにぎりで育ってきたし、きっとそのべちゃべちゃ加減も不格好さも母にしか出せない味で、唯一無二の味なのである。

そう思うと、おいしくないおにぎりなのに、とってもありがたいような気がして、久しぶりに「おにぎり作ってくれない?」等といってしまいそうになる。

きっと食べたら食べたで、やっぱり「どうしたらこんな柔らかくなるんだろう。」とか文句しか出ないと思うけれど。

「母の味」は決して美味しいものだけに限らないんだなぁと気付かされた。

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