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かゆいところに手が届く

数日開かなかったら、Noteの機能がいつの間にか改善されていた。
トップの写真が前までは規定のサイズに切り取られていたけれど、自分で自由に切り出す範囲を選ぶことができるようになっていた。

いつもトップの写真のサイズが合わないせいで、同じようなものばかり使っていた(トリミングは面倒だった。)ので、これは嬉しいなぁと思った。
こうゆう、ちょっとかゆいところに手が届いた時の嬉しさって、衝動買いに繋がったりする。
最近かゆいところに手が届いたのは、1パックずつ売っている納豆だった。

生活している中で、ちょっとした変化に気づく時があって、そうゆうことで昨日とは違う日だってことを、前進しているんじゃないかってことを知ることが出来ているのかもしれない。
進んでいるのは周りだけだったりするのかもしれないけれど。

通勤路とか通学路とかが私にはあって、毎日違う道よりも同じ道を通っていることの方が多い。
本当は毎日違う道を歩いて、その角には何が待っているんだろうってドキドキしたりしてみたい気もするけれど、粛々という言葉が似合っている通り道を歩くのも悪くはない。
同じ道でも、たまにどこかで夕食の支度をしているのか、いい匂いが流れてきて、足が止まることがある。
生活感のある匂い。柔軟剤や香水にはない匂い。
出処はわからないけれど、嗅いでから自分もお腹が空いていることに気づいたりして、一日が終わるなぁというあの匂いがとてつもなく好きだ。

夜遅く帰っている時に、シャワーの流れる音、シャンプーのような石鹸のような清潔感のある香りに出会うと、ちょっとホッとする。
家に着いたわけでもないのに、「日常が営まれていること」に自分も乗っかれているような安心感がある。

かゆいところに手が届く。そうゆう便利さにであうと嬉しくなる反面、「あぁ、工夫する手間がなくなっちゃった。」と少しさびしく思う自分がいる。
かゆいところを書こうと頑張って手を伸ばしてみたけれど、届かなくて四苦八苦していたのに、ある日便利な道具を見つけた途端、かゆいところは簡単にかけるようになって、頑張らなくてよくなってしまった。
背中に手を伸ばそうと必死になっている滑稽さが愉快だったのもあるのかもしれない。
必死さがなくなり、滑稽なことをしないと日常は静かで平穏だ。
そうやってゆらゆらと日常というゆりかごに私は揺られている。

それがいいことなのかはわからない。

かゆいところに手の届くソングの出番な気がしている。



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