できなくなってしまったときは新しい現実の予兆の現れだ

しばらく長い文章を書いていなくて、もしかしたら私はもう長い文章を書けなくなってしまったのではないかと不安になって久しぶりにnoteになにかを書こうと思い立った。最近の私といえばツイートにしても140字も文章が思いつかず、ある程度の分量を仕事で書かねばならないときにはChatGPTに頼りきりなざまなのだ。

8月の下旬に風邪を引いてジムをしばらく休んだ後、久々にベンチプレスを上げようとするとたった30kgでもとても重く感じてしまった。「筋肉落ちちゃったのかな」とトレーナーさんに聞くと「落ちた訳ではなくて、脳が使い方を思い出せないんですよ」と返ってきた。使い方を思い出せない。なるほどと思った。忘れてしまったわけでも無くなってしまったわけでもないけれど、どう使うのか忘れてしまっただけなのか。

30kgすら重いと思ってしまう私を私はどこか劣った存在かのように思ってしまっていた。かつてできていたのにできなくなってしまった、という老いの問題に結びついて、老いゆく残りの人生はこうして萎んでいくのか、と思っていた。だが、使い方を忘れてしまっていただけなのかもしれない、と思うと勇気が湧いた。

中学生のころ、先生が「パソコンばっかりやっていると漢字の書き方を忘れてしまうよ」と言っていたのを思い出した。確かにその通りで、いまや手書きでなにか書く時は漢字を調べ調べでないと書くことができない。「挨拶」って字、難しくないですか。だけれど「挨拶」と書いてあれば「あいさつ」と読めるし、漢字を忘れてしまった訳ではない。ただパソコン時代の解像度で、キータイピングに合った仕方で漢字を覚え直しただけなのだ。確かに漢字の細かいことは忘れた。でも漢字の使い方を忘れたわけではない。いまの環境に合わせた形で漢字の知識を再構築したのだ。読み書きという目的を果たせているのだ、それでいいだろうと思う。

できなくなる、ということには、いまは使い方を忘れてしまっているだけという可能性と、いまの環境ではその仕方でできる必要がなくなって知識が再構築された可能性とがある。かつてより劣った存在になったわけではない。むしろ、できなくなったことを梃子にいまの環境を再構築していくという方向性すら考えられる。

どういうことか。例えば私は疲れやすいため一日8時間働くことができない。この事実が「できない」というネガティブな感情を生むとしたら、それは「一日8時間働けることが社会人にとって普通である」というある社会に支配的な物語が存在しているからだ。苦しさというのはこの支配的な物語を皆のように私も語りたいのにそれができないという意味なのだ。ここで、本当にその物語しかないのかと疑って、別の物語を紡いでみたらどうだろうか。「一日8時間というのは工場労働時代の考え方で、知識労働にとって時間は本質的ではないのだから、働ける分だけ働けばいい」という物語が支配的な場所があったとしよう。そこでは私が一日8時間働けない事実は変わらないのに、私は皆と同じ物語を語れるので苦しまなくて済むことになる。できない、からスタートして、できなくても生きていける環境を構築するエネルギーに変えてしまえばいいのだ。

できなくなった、というのはネガティブな意味合いだけではない。確かに悔しくはあるから脳が使い方を思い出せるように努力してみるのもいい。こうして長文を書く練習をしているのもそのひとつだ。最近では毎日たくさん歩いて体力をつけようともしている。だけれども、できなくなってしまったことが苦しみにつながるときは、その苦しみを生み出している物語はなにか考えてみてほしい。そして、その物語は絶対揺らがないものなのか、オルタナティブストーリーは紡げないのか考えてみてほしい。そのオルタナティブは、苦しみから解き放ってくれるだけでなく、いまよりも私に合った環境を構築するエネルギーがあるのだ。ピンチはチャンス。

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