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すずめの戸締まり考察④〜「星を追う子ども」と「すずめの戸締まり」〜

考察①、②、③の続きになります。
ここまで相当長く、語ってしまいました。これで考察はまとめに入ります。ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


6、「星を追う子ども」と「すずめの戸締まり」

 「すずめの戸締まり」は、「星を追う子ども」の復刻版と評されることがしばしばあり、著者もその意見に強く賛同したい。

「星を追う子ども」で描かれた「喪失からの再起」は、「すずめの戸締まり」の根本に据えられ、物語後半のラストシーンで、その意義をより一層実体化させ、昇華することに成功している。

キャッチコピー
「それは、"さよなら"を言うための旅」



6–a、「星を追う子ども」の主題

 さて、「星を追う子ども」は、2011年に公開された、新海誠長編作品の4作目にあたる。奇しくも公開年は「すずめの戸締まり」で重要な意味を持つ「東日本大震災」の年であり、二作品の間には10年という歳月が流れている


 考察③で取り上げたように、「星を追う子ども」は、主人公の明日菜が、想いを寄せていたシュンという少年の死をきっかけに、死者の世界「アガルタ」へと旅に出る物語である。


 森崎という教師もまた、同作では非常に重要な人物である。彼は戦地での内戦中に、一人故郷に置いてきた妻を病気で失くす。別れの言葉もなく、ただ彼女は静かに死んでいった。愛する者とのある日突然の別れ、森崎は妻リサの死をいつまでも受け入れられずにいる。そしてどうにか、もう一度妻に逢いたい、生き返らせたいと考えるようになる。


 地下世界「アガルタ」には、死者の魂が眠る。そしてそこでは、死者の復活さえも叶うと言うのだ。

愛する人のもとへ行く、たとえそれがどんなに危険な旅であっても。明日菜と森崎は、アガルタへの旅を決意する。


 二人の旅には、様々な困難が待っていた。二人は力を合わせて旅を進めていく。同時に、二人の心の距離も近づいていく。明日菜は森崎に、幼き頃に亡くした父の面影を見る。



また、旅の途中で出会ったシュンの弟、シンの手助けもあり、生死の門までたどり着くことができる。


 生死の門は、まるで宇宙と地上の境目のような場所であった。空には無数の星が輝き、ここが「異世界」であることを明らかにする。


 

 生死の門で森崎は、妻リサの復活を願う。生死の門の主人は、リサの魂を入れる依代が必要であるとする。森崎は明日菜の体を受け皿にし、リサの復活を果たす。



だが依代は明日菜の体だけでは足りず、森崎は代償として、自身の両目を失ってしまう。(某宮崎アニメの「目が〜!」のシーンと酷似)



 体を開け渡した明日菜の魂は、ぼんやりとした記憶の中で、シュンと再会する。遠くから、明日菜の名前を呼ぶシンの声が聞こえる。

私、行かなくちゃ

そう言って、明日菜は部屋の扉を開く。



体を乗っ取られている明日菜を助けるために、シンは闘っていた。そして叫ぶ。
「生きている者が、大事だ!」

そう叫んで剣を振り下ろした瞬間、リサの魂は明日菜の体から切り離され、ゆっくりとその意識を失っていく。

行かないでくれ!愛している。愛していた!

失明した森崎の目からは、涙と血が溢れている。




 目を覚ました明日菜と、項垂れる森崎に、シンは次のように言う。この場面が、同作の主題となることは間違いない。


喪失を抱えて、なお生きろと声が聞こえた。それが人に与えられた呪いだ。

でもきっとそれは、
祝福でもあるのだと思う。



 アガルタでの旅を終え、明日菜は地上へと戻る。森崎は地上へは戻らず、アガルタでシンとともに流浪するという。


 明日菜は無事に家に帰り、その後も変わらない生活を続ける。確かに日々は流れていき、小学校の卒業式の日、以前より大人びた明日菜に、母が声をかける。



行ってらっしゃい

行ってきます!


そう言って、明日菜は家を出る。
これが「星を追う子ども」の終わりである。



さて、「すずめの戸締まり」の終わりには、旅を終え日常に回帰した鈴芽の日々が、いつも通り過ぎてゆくこと、そして鈴芽と草太が一番最初に出逢った場所で再会した草太に、鈴芽が「おかえり」と声を掛ける様子が描かれる。


「行ってきます!」で終わる「星を追う子ども」と、「おかえり」で終わる「すずめの戸締まり」、この対応が二作品の関連を示していることは言うまでもない。


「星を追う子ども」の主題は、「喪失を受け入れて生きていく」ことである。この場合の「喪失」は、実体的な

愛する人との突然の別れ、受け入れることのできない苦しみ、そしてその苦しみの「救済」を、死者との再会に見出す。これが「星を追う子ども」の森崎と明日菜である。



しかしそんな「救済」は、ないのだ。

何故なら死者は二度と蘇りはしないし、助けてもくれないからである。森崎が望んだ未来は、現実でもアガルタでも実現しなかった。
だからこそ、喪失は「呪い」なのだ。残された人々は、喪失を受け入れて進むしかない。


しかしながら一方で、「喪失」という避けられない呪いがあるからこそ、かえって今ある「生」に価値があると思えるはずである

今を大切に、一生懸命生きることの意味が、
強く現れてくる。


喪失は、呪い。しかしきっと、祝福でもある。」この言葉は、おそらくそう言った意味で用いられているのだろう。





6−b、すずめの戸締りの主題

 さて、「すずめの戸締まり」の冒頭では、常世を走る幼い鈴芽が描かれている。

「おかあさん、どこ?」と泣きながら走る鈴芽のもとに、一人の女の人が近づいてくる。

「…おかあさん…?」

鈴芽の目には常世の幻想的な世界と、その世界に佇むぼんやりとした人影、その人の持つ黄色の椅子が写るのみである。


ほとんどの人が、その女の人を鈴芽の母だと思ったのではないだろうか。

物語が進むにつれ、鈴芽の母が震災で亡くなっていることが分かり、幼き鈴芽が常世に迷い込み、亡き母との再会を果たしたのだろうと想像する。

そしておそらく鈴芽の旅も、母との再会(=死者
との再会)により苦しみ(=呪い)を受け入れ、前を向くというものなのだろう…
、そう思った人も少なくはないはずだ。




だが、物語はそんな想定を覆すラストを見せる。

幼い鈴芽が常世で出会ったのは、亡き母ではなく、草太を助けたあとの高校生の鈴芽自身だったのだ。

死者ではなく、生者であり、
他者ではなく、自分自身
だった。


ここに、「星を追う子ども」との明確な違いが見られる。

妻の死を受け入れられず、死者に「救済」を求めた森崎は、そこにはいない。

自分のことを、これまでの自分が「救う」話が、「すずめの戸締まり」なのだ。「救済」を死者や他者に求めるのではなく、自身に見出していく。ひたむきに歩いてきた日々が、自分を「救う」ものになるのだ。

「喪失」を受け入れ、進む。
そうして真っ直ぐに進んで行けば、
必ず光の当たる場所に行ける」、
そして「誰かを愛し」、
誰かに愛される」ことができる。


愛する亡き人の復活に失敗し、そのまま地下世界で生きることを決めた森崎に、新海誠が10年越しに届けたアンサーがこれだ。

「喪失」を抱えてなお生きよう。
「生きたい」と願おう。
そうすれば、必ず「光の当たる場所に行ける。」





7、終わりに

 ここまで、「すずめの戸締まり」について考察してきた。①ロードームービーとしての「すずめの戸締まり」では、旅を通じて鈴芽が触れた人々の繋がりや暖かさ、そして連綿と繋がれていく人々の想いについて述べた。

また、「行って帰ってくる」話として、日常から非日常(死)に触れ、また日常に回帰する主人公の姿に、確かな成長と「喪失からの再起」を見出した。


②災害三部作としての「すずめの戸締まり」では、「君の名は。」と「天気の子」との比較を踏まえ、問題点を消化しさらにレベルアップさせている新海誠監督の本作に懸ける想いを見た。


また③では、「距離」と「時間」をキーワードに、これまでの新海誠作品の傾向を掴んだ。その中で特に「星を追う子ども」との関連性を見出し、④でその詳しい概要を述べた。


 新海誠作品は、過去作品との関連性を以って構成されている。作品の主題に迫るとき、過去作品を手がかりにすることは効果的だといえる。

このような過去作との繋がりもまた「結び」であり、この「結び」はおそらくこれからも続いていく。

次回の作品でも大いに「結び」が見られることを期待し、また3年待つことにする。

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