私は呪われている。
私が昔信仰していた宗教が、今世間に注目を浴びている。
それは、組織にとっては良くない意味で。
私たち被害者にとって、やっとここまで来たかと思う程望んでいた形で。
自浄作用の一つなのだと思っている。
箝口令を敷き続け、同調圧力を強いながら、いざ立場が悪くなると信者の考え違いということにして逃げ続けた組織の。
時代が変わっていることに気づけないのが弱みだった。
昔は全ての環境を断ち切り宗教内で生きさせておいて、悪しき種を見つけたら村八分にし、発言には一切耳を貸さない。発言しようにもする場所がない。辛酸を舐めた元信者はどれくらいいただろう。
その方法で統制がいつまでも取れると思っていたのだろう。
時代は変わった。
ネットを通し、発言できる場所が増えた。
そしてふとしたことをきっかけに、世間が目を向ける時代がやってきた。
報道の場で、書籍で、そのほかのいろいろな媒体を通して。
私は某宗教に対して、直接そこまで私怨を抱いてはいない。
一生懸命活動をして、仲間がいて、とても楽しかったからだ。感覚で言えば部活みたいなものだった。でも、学んだ内容や息苦しかった感覚を、ぽっかり穴が空いたみたいに忘れてしまっている。いわゆる乖離した状態だ。
辞めた後、辞める直前直後、直後本当に苦しくて色々なことがあって、生を手放すことまで考えたけれど、組織を恨みきれないのは、まだ組織に対して向き合えていない証拠だと思う。
私はまだ、あの宗教の呪いから抜け出せていない。
自分の全てだったものを、自分から乖離させて客観視して俯瞰することができていない。
私は宗教に傾倒してはいなかった。
ただただ、親の期待に応える事が全てだった。
尻をむき出しにして叩かれながらも、母の顔色、一挙手一投足に怯え、震えながら考えていたのは自分の愚かさ、失敗してしまった恐怖、愛されなくなったら、期待されなくなったらどうしようという強迫観念。
母のために生きることが全てだった。
でも母は私を見ていなかった。
理想の娘、理想の家族像を追い求めていた。
宗教の教え通りにステップアップしていく理想像。
家族全員が神を信仰し、組織に忠実な家族像。
その像にみっともなく縋り付いて、道化していた。
依存と執着で成り立った愛憎の関係。
母の中で私の価値が変わったのは私が宗教を辞めてからだ。
期待の星から、憐憫、憐れむべき愚かな存在へ。
母は執拗に呼びかけてきた。
愚かな存在、間違いは許される、このままだと家族だとは認めない、戻ってこい、戻ってこい、戻ってこい。
その母からのメッセージを読むたびに、心を痛め、涙を流した。自分さえ辞めなければよかったんだと何度も思った。
なにも考えず思考を停止して、長いものに巻かれて、傾倒してる間って、実は苦しくないのだ。
誰かもどこかで言っていたけれど、気がついてしまってからが地獄なのだ。
私は呪われている。
宗教と母が今も私を呪っている。
そして何より、なにも感じず考えず純度100%の思いで信じていた自分がまだ心の中に生きていたと気づいた時の私は、絶望するくらい呪われていると感じた。
とっくの昔に振り切れていたと思ったのに。
報道がバッサリと切り込みを入れた混沌の深淵、これからどんな形になるのだろう。
組織は否定に走るだろう。許せないけど謝罪して欲しい、だがそれができずに理屈を捏ね回すのがあの組織だ。
だが公のニュースの特集で組まれてしまった以上、信者が観ていない可能性なんてあるだろうか?
もう親世代の固執した人たちはいい、あの同じ郷里を信じている人たちのサークルの中で永遠を願いながら幸せに死ねばいい。
でも、私が離れた組織には20代から30代の、まだ取り返しがつく人たちがいる。ちょうど結婚したり子供を持ったりしている人たちがいる。その人たちは救われないだろうか、まだ、まだ間に合う、社会的に救われる余地がある。
同世代として一緒に肩を並べて一度は同じものを一生懸命信仰したから。情報を与えて選ぶ余地を与えてあげて欲しいと切に願う。
そして、もしも今回の件をきっかけにこの界隈を覗いた人がいたら。なにも言わずに優しく抱きしめてあげたいと思うし、優しく迎え入れてあげて欲しいと思う。
今まで生きてきた支柱の根幹が空洞だったと気づいた時の絶望感、心に覚えがある人は少なくはないでしょうから。
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