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何を信じ、何を頼り、どう生きるか。

産まれた時から信じていた新興宗教を辞めた時、多くの宗教内の友人たちは凄まじい音を立てて遠ざかっていきました。

その中でほんの一握り、私と連絡をとり続けてくれていた、一緒に一時期暮らしたこともある友人と、この前飲みに行ってきました。

その友人は不思議な空気を纏っていて、会った瞬間久しぶりの邂逅は嘘のようにいつも通りの空気感に戻ったような。
不思議な人なんです。一緒に住んでいた頃、世界が狭くて完璧主義で頭の硬かった私は何度も理解できずに苦しんだことがあったけど、達観してみれば大人な人だったということでしょうか。

お酒の席でたわいもない話をしつつ、彼女の信じている宗教に自分が不信感を持っていることが伝わらないようにほんの少しの嘘と建前と本音を混ぜながら話すことしきり。

近況報告をしている最中、ふと、彼女が言いました。
「私は納得がいかない時、落とし所が見つからない時、苦しい時、私みたいな人間にはわからないところまで知ってくださってる神に全てを任せてるんだけど、茜ちゃんはどうしてるの」

いろんな答えを事前にシュミレーションしてたけど、そのシュミレーションはしてなくて、うまく答えることができませんでした。

それは、彼女が言う“神”のあり方が、私の思うあり方とほぼ一致していたから。

宗教をやめたから無神論者になったわけではなくて。
金と保身だけに走る宗教には本当に嫌気がさしているけど、神という存在そのものを否定するつもりはなくて。

私の信じていたエホバという神は何千年という歴史の中で選民意識が高く、自分を信仰しなかったり背いたりするものには見せしめのような鉄槌を下す神だから、ちょっとそんな神様は怖いなぁと思うけど。そして何も考えずに神のご意志を待とうと自分の考えを捨てることはとても楽だったけど。

宗教をやめて、日本の宗教である神道を学んで、八百万の神という考え方に腑に落ちた感を感じました。

金のことしか考えてない青い神様より、名もない神に、花の綻びを、空の煌めきを感謝して、見えない何かに思いを寄せてみたり。そんな生き方も悪くないなと最近思うのです。

ただ宗教を信じていた頃と大きく違うのは、宗教組織に言われたことを守って生きていく生き方は自己を捨てる(これをきっと献身という呼び方をする)のと違い、自分の決定に責任を伴うということ。自分のしっかりとした意志を持つということ。そのうえで、今の自分のキャパを超えた時は神様なり都合のいい何かに一旦問題を預けて潰れないようにすること。

信じるものって宗教だけじゃなくていいと思うんですよ。信頼できる人、見習いたいと思う価値観のインフルエンサー、本の著者。いろいろな価値観を併せて自分のものにしていく、その大切さ。

青い新興宗教を経て自分なりの宗教観をみつけることができました。
それと同時に、神に全てを委ねて“懐疑”から目を閉ざす生き方は、いつかその目を開けた時に苦しくならないかただひたすらに案じてしまいます。
神という存在は心の拠り所にあれど、それと宗教を一緒にする必要は果たしてあるのでしょうか。

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