[掌編]L'espion menacé»諜報員危うし« -嘘の五つの顔③-
ベルギー国内で一番人気のスパイ小説シリーズ『片眼のルネ』の最新作がいよいよ刊行された。
首を長くして待った熱狂的なファンとして、発売日は仕事を休み書店の開くのと同時に駆け込んで買う……というのをやりたいのは山々だったが、日々慎ましく職場にて規定の仕事を基準通りに遂行する、ごく普通の勤め人をしている市民と自負するトマ氏は終業時間まで自制していた。
職場の同僚は誰一人としてトマ氏の素顔を知らない。
仮に彼が書店に立ち寄った姿を見たとしても、人文書か経済書を買ってる、と思っていただろう。
一人暮らしのアパートの一室に戻り、夕刻の書店で買った新刊『諜報員危うし』をテーブルに置き外套を脱いだ。
キッチンのコンロに湯を沸かすためにケトルを載せ、夜の紅茶の準備を整えた。
湯が沸くまでの時間、そわそわと落ち着かずトマ氏は椅子に腰掛けながら『諜報員危うし』を開いた。
地味で平凡な容姿……まるで冴えない見た目のトマ氏にとっては、映画よりも活字こそが最上の娯楽。
中でも大好物は正体を隠しながら陰謀渦巻く国際社会を股にかけた諜報活動の、スパイ活劇ものである。
スパイ小説を読んでいる時、中でも『片眼のルネ』を読んでいる時には彼は腕利きのA級諜報員・ルネ本人であり、活字で繰り広げられるスリラー・サスペンスは彼自身の身に降りかかるものだった。
トマ氏は文章を読みながら、自分は百戦錬磨のスパイであり、任務のために「トマ氏」という平凡なビジネスマンを演じているに過ぎない、と自身に嘘をつきながらその世界に没頭するのが常だった。
……今、まさに「片眼のルネ」(左右両目、ともにあるのに何故かそういう暗号名である)は機密任務の最中、美術史の教師という姿に身をやつしアパートに戻ったところだ。
複雑な潜入工作作戦の全貌はまだルネ本人にも知らされておらず、まずは本部の指示に従いごく普通の教師として……室内に入り普通を装いながら、しかしルネは敏感に異変を察知している。
隣の部屋に続く四角い扉の向こうに侵入者が潜んでいる。
気配を察しつつ気取られぬよう、さりげなく部屋を歩きまわり、手近に放り出してあったグラフ雑誌を手に取り丸めた。
ルネは扉を開けながら暗い部屋に足を踏み込むと同時に棒状にした雑誌を真横に突き出した。
棍棒を振りかぶっていた黒づくめの侵入者は喉を突かれ膝から崩れ落ちた。
片方に控えていたもう一人の侵入者はロープを持っていたが、顔への肘打ちから手刀で首を打ち、どちらも動き出す前に床に崩れ落ちた。
呆気ないな、とルネが訝しく思うと同時に部屋の闇の一部が蠢いた。
素早く飛びのいて壁際に倒れ込み、投げナイフを避けた。
二人とは別に手練れの暗殺者がいた。
身体を立て直す暇も与えられずに投げナイフが飛ばされてくる。
部屋にある椅子を前に転がして盾にした。
黒い影が巨大な手の平のように覆いかぶさってくる。
寝た体制から足蹴りで相手の顎を払う。
起き上がり構えると、素早く立ち上がった暗殺者の方は既に新しいナイフを手に持ち突き出してきた。
身を反らして暗殺者の手首を掴み腹に膝蹴りを入れる。
掴んだ手首を上にねじりナイフを落とさせてさらに攻撃を……
と同時に隣の部屋からホイッスルの音が聞こえた。いや。
お湯が沸いた音だ、とルネは思った。
コンロの火を止めないと……
気を取られた瞬間に自由な方の手で暗殺者が別のナイフを……
ルネは慌てて本をテーブルに伏せ、椅子から立ち上がりコンロの火を止めた。
ケトルの蒸気が鳴らす笛は止まり、ポットにお湯を注ぎ程よい紅茶の香りが立ち上る。
カップに紅茶を淹れてはたと思った。
伏せた本を手に持ち続きを読むと「片眼のルネ」、この「私」が暗殺者のナイフに斃されているではないか。
まさか、出だしのわずか数ページなのにケトルの音に邪魔され刺客に消されてしまった。
それともこれは作者の新機軸で続きに意外な展開があるというのか。
まずは冷める前に紅茶を……紅茶を飲みながら考える。
紅茶を飲んでいるこの自分は、「片眼のルネ」になりきっている本好きの勤め人・トマ氏なのか、それとも「トマ氏」を演じている諜報員・「片眼のルネ」なのか?
初出:2022年(令和04)10月01日(土)
ノベルアップ+ 『ショートショートコンテスト』テーマ「嘘」参加作品
( https://novelup.plus/story/318977612/250670726)
改稿:2023年(令和05)09月08日(金)
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