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日々よしなしごと~転校生だったころ~

桜の時期は、facebook上にあふれる桜の写真、写真・・・日本人はつくづく桜が好きなんだなあって思う。もちろん私も好きですけどね。
桜って、咲き始めから満開、そして散っていく姿もすべてが美しい。特に散っている風情は日本人の死生観にも通じるくらいに切なく狂おしくなるほどの感情を掻き立てるらしい・・・

となんだか文学っぽく書いてみちゃいました・・・春はまた別れと出会いの季節。娘たち家族は諸事情で今年の1月に隣の区に引っ越しをした。そのことは少し前のnoteで、娘が遭遇した苦難?についての中で書いたが、今度は孫の初めての受難?らしい。

区が違うことで、この4月から引っ越先の区の保育園に転入することになった孫は、3月31日にのこれまでの保育園の先生やお友達とお別れをした。先生からのありがたいメッセージなどもいただき、何人かは泣いたお友達もいたみたい。孫は案外あっさりとバイバイしてきたとのことだった。

4月1日に新しい保育園に行くと、なんとコロナの感染がありしばらくは休園するとのこと・・・初日は半日だけなので、それなりに緊張して行って新しい先生やお友達との初顔合わせもそこそこに、いきなりお休みとは、この状況ではあるあるなんだろうなあ。

ということで、3日ほど娘がリモート対応したり、パパに見てもらったりしながら、何とか待機期間を乗り越えた。そして先日本格的?に登園する日、行きたくないという孫を、何とか言い聞かせて保育園に預け、一日過ごして帰ってきた。なんだか元気もなく、聞くと一人で遊んでいたという。転入って、すでにできている違う文化?の世界に入っていくことなので、幼い子供には大きな試練だったかもしれない。とはいえ、これも大事な経験だし乗り越えて欲しいと娘と励まし?合う。

何日か後、様子を娘に聞くと、昨日は朝泣いて行きたくないと言っていたけど、迎えに行くとニコニコしてお友達にバイバイしていたという。なんとかお友達ができたみたい。案ずるより産むがやすしというか、子供の世界はこんなものかもしれない。


私自身も、子供頃よく転校した。両親の仕事などの事情で小学校で2回、中学校でも2回転校した。今思うと、転校する時に寂しい思いをしたかというと、それほど辛い記憶がない。そういう感情が全くなかった訳ではない思うが、新しい学校での生活にもすぐ慣れたような気がする。適応力があったということなのかな? 父親には、私は雑草みたいに強い子だとか言われた。今思えば両親の仕事が不安定だったこともあり、むしろそのことの方が子供心におぼろげな不安を抱えていて、学校はそういうことを忘れられる場所だったのだろう。だから直感として、すぐに適応することで自分を守ろうとしたのだと思う(今ならそう思える) そのせいか、親せきの人に私は子供らしくないと言われていたのは、どこかに大人びた処世術みたいなものを身に着けた素直さに欠けた子供だったのだろう。

そんな風に転校をなんとなくやり過ごしてきた私も、ある時いわゆる「幼馴染」がいないんだと気が付いた。娘や友人の中にも、小中一緒の幼馴染という友人を持ち、大人になっても互いの消息を知っていたりするのを見ると、ちょっぴりうらやましいと思う。子供時代の歴史を一緒に語れる友達というか・・・

私の子供時代の記憶や思い出は、分断されていて歴史というより一瞬一瞬の記憶なのだ。私の中にはそんな子供時代の断片だけが残っている感じ。歴史として長い絵巻物になっていないというか・・・それがいいこととか悪いこととかではなく、そうやって私自身ができてきたんだなと気づく。だとしても、断片の中で子供なりに、自分がそこで生きるすべを見出し、失敗したり喜んだりうれしいことや悲しいことや辛いこともきっと乗り越えてきたんだなと思う。

3歳の孫の記憶はきっと残らないと思うけど、この出来事で私の幼い頃子供の頃の記憶と思い出がよみがえった。

転校生だった頃の私、頑張ったじゃないか。笑





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