書店の棚を見ていたらまたま目にとまり、米原万里氏が著書『打ちのめされるようなすごい本』で紹介されていたのを思い出して手に取った本です。文庫版で本文約200ページの短い本ですが、米原氏の言葉のとおり、打ちのめされる本でした。
本書によれば・・・
著者は1946年福岡県生まれの医師。84年ペシャワール(パキスタン)に赴任。ハンセン病を中心に貧民層の診療に携わり、86年からはアフガン東部山岳地帯に三つの診療所を設立。2000年以降は、アフガニスタンの大旱魃対策のための水源確保事業を実践。
2019年12月4日、アフガニスタン・ジャララバードで凶弾に斃れる。
享年73歲。
中村医師が亡くなったとき、確かに、私もそのニュースを目にしていました。しかし私はただ、日々流れてくる、私の知らない「著名人」の訃報のひとつとしてしか認識できていませんでした。
そしてこの本を読んで、また今回も、自分がいかに無知で、貧弱な経験の中でしかものを考えていないかを思い知りました。
私はアフガニスタンについて、「9.11後、アメリカが戦争していた国」程度の認識しかなかったのです。
そしてこの本を読んで、今さらではあるのですが、まさに命を捧げてアフガニスタンのために尽くした人が、かの地で銃撃されて亡くなったということに、なぜそんなことが起こったのか、なぜよりによってこのような人が・・・という、茫然とする思いでいっぱいになりました。
この本は、著者の活動のなかでは比較的初期、ソ連のアフガニスタン侵攻の後にペシャワール(パキスタン)へ赴任し、アフガニスタン紛争のさなか、現地での医療に取り組んだ、その記録です。
しかし、本書が読者を激しく動揺させるのは、その体験の過酷さではなく、大国や西欧諸国、それに追随する日本の無知と傲慢さに向けられる、腹の底からの怒りと失望です。
1978年にアフガニスタンに生まれた共産政権を支援するため、翌年、ソ連軍が10万人の大部隊で侵攻。ゲリラ(というより住民そのもの)は頑強に戦い、ソ連軍を苦しめました。そのゲリラに、米国は、ソ連に対抗するため武器を提供し、ゲリラを「生かさず殺さず」戦争を継続させたといいます。この内戦の結果、アフガニスタンの農村の半数が廃墟となり、200万人近くが死亡、全土で約600万人が難民化したといいます。
その惨状に長らく無関心だった西欧諸国が、198を押し付けようとする。
それでもこの本は、その後のアフガニスタンの大干ばつや、それに苦しむ人々へ向けて行われた9.11後のアメリカの空爆よりも、前に書かれたものなのです。
2001年以後のアフガニスタン紛争を目の当たりにし、中村医師の怒りと失望はどれほどのものだったかと思います。
また著者は、西欧諸国だけでなく、日本に対しても、深い失望を表しています。ただ欧米諸国の後ろにくっついて、結果として加害者になっているかもしれない自覚さえ持とうとしない。
本書で、アフガニスタンに診療所を開設するための現地調査を終えた夜、アフガン人スタッフと交わされた会話の部分があります。やや長くなりますが引用します。
平和にあこがれている、日本のように・・・というスタッフの言葉に、恥ずかしさと情けなさで、うつむいてしまいます。
PKO法が議論されているとき、武器を持った自衛隊が他国へ行くということが現地でどんな意味を持つのか、実感をもって考えようとした日本人がどれだけいたでしょうか。
日本だって戦後、朝鮮半島やアフガニスタンのようになる可能性だって十分あったはずです。
今の私はたまたま戦争をしていない国・時代に生まれただけで、平和を受けるに値する何かの努力をしたでしょうか・・・。
また、著者が自分たちの活動について述べる部分も、大変心を動かされます。
そして、予算と宣伝ばかりで実をあげない先進国の「国際協力」を尻目に、1992年6月、パキスタン国内の300万人の難民は、故郷のアフガニスタンに大移動を開始します。勇猛なゲリラたちがライフル銃を農具に持ち替え、荒廃した故郷で耕作を再開していきます。
中村医師はこの本を次のように結んでいます。
中村医師は文筆家ではありませんが、人を変える力のある言葉を持っていた人だと思います。
こうした内容の投稿は、正直多くの人に読まれるものではありませんが、せめて著者の言葉の一部でもネット上に残しておきたい気持ちで書きました。