見出し画像

いかがお過ごしですか?

あなたは年賀状を贈る人だろうか。それとも贈らない人だろうか。

今は年賀状を書く人が減っているそうだ。
私の周りでも「今年をもちまして年賀の挨拶を失礼させていただきます」
というような年賀状やめるよ宣言をする人が増えた。
私自身、やめようかなと考えることもある。
でも、結局続けている。

今はLINEやSNSで繋がっている人が多いし、わざわざ年賀状のやり取りをする必要がない。
とは言えやはり年賀状でしかやり取りがない人もいて、そういう人たちと年に一度、なんとなくお互いの消息がわかれば良いかなと思っている。

先月末あたりから喪中はがきが届くようになって来た。
もうそんな季節なんだなと思いながらその内容を見て、思わぬ訃報に胸が痛くなる。

私の手元に届く喪中はがきに書かれる「他界した人」は若い人が多い。
もちろん祖父母や親御さんであっても家族にとっては大切な家族で、だから悲しいだろう。私の親と同じ年代の人が亡くなると、なんだかその死がぐっと身近にも感じる。
ただ、あまりにも早い死はやはりなんとも言えず、苦しい。

亡くなったと知っている人のご家族から届く喪中はがきは、わかってはいても寂しく悲しい。
一方で喪中はがきで初めて亡くなったことを知ると、驚くし…ひたすら切ない。
年に一度のやり取りの関係だから、正直涙が出て仕方ないということはない。でも悲しい。

けれど良かったなと少し思う。
何も知らずに数年してから偶然知るのも一つではある。
でもこうしてご家族からその報を聞くと、ちゃんとその人とお別れができる気がするのだ。

もともと年賀状だけの細い繋がりなので、これで縁は切れる。
特別親しかった相手でない限り、ご家族とその後も連絡を取り合うことはない。
だからご家族のこれからがどうなるのか知る由もないけれど、心穏やかに過ごせる日が多くありますようにと願う。

--------------------

年賀状での、昔お世話になった先生(医師)たちとのやり取りは小さな幸せだ。
忙しい先生たち、昔からこちらから届く年賀状を見てから返信をくれる。
そこに先生たちからひとこと添えられているのはとても嬉しい。
「君が〇歳になったとのこと、先生も老けるはずです」とか
「穏やかに過ごせている様子、安心しました」とか
「無理のないように」とか。

現在のハンサム主治医は「一緒に頑張りましょう」などが多い。
はい、頑張ります。よろしくお願いしますと心の中で思う。

先生たちとの年に一度のやり取り。
これだけで、なんとなく元気が出る。

近年は子どもの写真が入った年賀状は嫌がられるんだそうだ。
私は全く気にならないし、むしろウェルカムだ。

友だちの子の写真があり、そこに「高校生になりました」と添えられていると「もうそんなにおっきくなったんかー!」とびっくりするし楽しい。
どうして人さまの子はあんなに早く成長するのか。
「君この間生まれたところやん…」と思いながら年賀状を見ている。気持ちは親戚のおばちゃん。

私と同い年の友だち。
こんな風に子育てしてたんだなと思うと凄いなと尊敬する。
私とは全く異なる生き方で、友人を羨ましいと思うことはあるけれど、それでも、彼女も私も今までなんとか過ごせて来れて良かったなと感じる。
(それに、年賀状に映し出されるのはその人の楽しい面や良い面ばかりで、きっと実際の生活では紆余曲折あるはずだから、ね。)

毎年コスプレした年賀状をくれる友人もいる。
毎回楽しみだ。来年は鬼滅の刃だろうか。

たぶん私は、年賀状が向いているタイプの人間なのだと思う。

年賀状は面白い文化だと思う。
以前大学生の子と話をしたことがあったけど、小学生の頃に授業で書いただけで、以降年賀状を書く習慣はないそうだ。
年賀状面白いけどな。ちょっと勿体ないなとも思う。
けれどだからと言ってみんな送れば良いとは考えていない。
苦手ならやめちゃえば良い。
興味があれば書いてみれば良い。
それぞれに合う年始の挨拶ができればそれで構わないと思う。

そして私は、面倒くさいだの文句を言いつつも、生きてる限り年賀状を続けようと思っている。

おそらく年々贈る相手は減って行くだろう。
喪中はがきが届けば悲しくなるし、年賀状をやめます宣言をする人には送らなくなる。
それでも年に一度だけの細い繋がりの相手とは、可能なら続けていきたい。
そして、できれば双方元気であり続けるとなお嬉しい。

ということで、今年も年賀状を購入した。

「いかがお過ごしですか。私はぼちぼち元気に落ち着いています」

あまり本を読んで来なかった私、いただいたサポートで本を購入し、新しい世界の扉を開けたらと考えています。どうぞよろしくお願いします!