小さい人たちへ

今日はクリスマスイブ。
恋人同士のクリスマスや家族で過ごすクリスマスはもちろんアリだけど、私の中ではクリスマスと言えば小さな子がサンタさんにプレゼントを貰うイメージが強め。

今年は世界中が大混乱で、子どもたちにとっても混乱した年だったと思う。
そんな小さい人たちがにこにこできる日が多いことを願って、今回は「子どもの権利条約」について少しだけ触れたい。

ちなみに、この「小さい人」という呼び方が私は好きだ。
NHK教育でその昔やっていた『できるかな』という番組をご存じだろうか。
その番組の中でノッポさんという背の高いお兄さんが出ていたのだが、彼はこの番組内ではしゃべることのない、ジェスチャーのみのキャラクターを演じていた。
その後番組が終了して自分の口で話をするようになった彼は、子どものことを「小さい人」と呼んでいたのだ。
それは子どもたちを一人ひとりの人間として扱っているからだった。

なんだかとても素敵なことだな。
そう思って私も自分で何かを書くときはなるべく「子ども」ではなく「小さい人・小さな人」と表記するようにしていたのだけれど、なかなか文章としてまとめることが難しい。
だから「子ども」と書くことが多くなってしまう。
でも心の中では、「小さい人」はそれぞれが一人ひとりの一個人であるのだという気持ちを忘れないように、と思っている。

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児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)は、
子どもの基本的人権を国際的に保障するために定められた条約 である。

1989年の第44回国連総会において採択され、1990年に発効。
日本は1994年に批准している。

※以下、「子どもの権利条約」一般原則は日本ユニセフ協会の「子どもの権利条約」について書かれたサイトより引用。
URLは文末に掲載しており、詳細はそちらをご覧ください。

「子どもの権利条約」 一般原則

◎生命、生存及び発達に対する権利(命を守られ成長できること)
すべての子どもの命が守られ、もって生まれた能力を十分に伸ばして成長できるよう、医療、教育、生活への支援などを受けることが保障されます。

◎子どもの最善の利益(子どもにとって最もよいこと)
子どもに関することが行われる時は、「その子どもにとって最もよいこと」を第一に考えます。

◎子どもの意見の尊重(意見を表明し参加できること)
子どもは自分に関係のある事柄について自由に意見を表すことができ、おとなはその意見を子どもの発達に応じて十分に考慮します。

◎差別の禁止(差別のないこと)
すべての子どもは、子ども自身や親の人種、性別、意見、障がい、経済状況などどんな理由でも差別されず、条約の定めるすべての権利が保障されます。

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「子どもの権利条約」自体を知らない人は多いかもしれないし、正直みんなの中にきちんと定着している考えとは言えないだろう。

だけど一つひとつを読めば「なるほど」と、当然のことだと受け止めることができる。
でも現実では、その当然のことが行われていない場合が多い。

子どもは(一般的には)親の庇護の元で育ち、だからどうしても親の権限が強くなりがちだ。
それが良いように作用していることはもちろんあるだろうが、「親の言うことが全て」になると少し怖い。
子どもはその親しか知らないわけで、その親が絶対だ。

他国を知らないからなんとも言えない部分はあるものの、この国はとりわけ「子どもは親のもの」という価値観が強いように感じる。
だから余計に子どもにも権利があるんだよと認識する必要があると思っている。

また、虐待や紛争に巻き込まれていたとして、それが日常であればその子にとってはそれが「普通」なのだ。
それをおかしいと感じ始めたとしても、自分がおかしいからとか、自分が間違っているからだと感じて心が疲れてしまう。
小さい人たちは、権利を持ちながらもそれを行使できるだけの力を持たない、サポートが必要な存在だ。そしてそのサポートができるように周囲の大人が自覚し、環境を整えていかなければならない。

私は、この国では「みんなに優しくしましょう」という教育についてはかなり熱心になされていると感じている。
半面、「自分にも優しくしましょう」という指導がおろそかではないかと思っている。
自分も一人の人間で、大事にされるべき人で、自分で自分を褒めたり愛していいんだよ。
何よりも、自分が助けて欲しいと思うなら、助けてと叫んで良いともっともっと伝えて良いと思うのだ。

権利というものは、肌感覚で理解できるものではないと個人的には思っている。

例えば私は先天性心疾患(生まれたときから心臓病)であるから、赤ちゃんと呼ばれる時期から周りのサポートが必要だった。
そして40歳代となった今でも、いろんな人の手を借りて生きている。
それはいろんな制度であったり、実際に手を差し伸べてもらうことだったりと形はさまざまだが…そうした多くのものや人に対して、感謝の気持ちでいっぱいだ。

でもこの「いろんな人の手を借りて生きる」ことを、私が恥だと感じる必要はないのだ(もちろん葛藤はあるけどね)。

私はこの命を全うするまで生きる権利を持っているし、そのために多くの力を貸してもらうことができる。
それは誰かの「迷惑になること」じゃなくて、私の権利だ。
けれどこの権利を理解していなければ、私はとてもとても自分を情けない存在だと思うだろう(権利を知っていてもそう感じるときがあるくらいだから、なおのこと)。

思いやる気持ちというのはなんとなくわかったとしても、思いやりだけではダメなのだ。思いやりの心というものは、人によってさじ加減が違う。
権利はさじ加減で変化するものではなく普遍のものだ。
そしてその普遍は言葉にして刻まないとわからなくて、言葉にして初めて相手の、そして自分の「権利」というものの大切さを理解する。
それが権利というものだと考えている。

だから私は多くの小さい人たちに知って欲しい。
今はわからなくてもいい。
だけどあなたは「あなた」だ。

それにしても、わざわざ条約にして示さなくても…という人はいるだろう。
でも、わざわざ示すことに意義がある。
文字にして、条約という拘束力のあるものにして自分を諌めるためだ。
そして知るのだ。
どこかの誰かや私にあるように、小さい人にも権利はあるのだと。


…とか偉そうに言っているものの、私には子どもがいない。
「だからそんな風に簡単に言えるのよ、実際に子どもと接したことがある?権利がどうとか言ってる場合じゃないの」
と言われてしまえば、はいその通りですごめんなさい。と謝ることしかできない。

でも私は、
甥っ子や姪っ子、友だちの子どもたち、
SNS上で見た日々を生きる子どもたち、
世の中の、いろんな状態に身を置く子どもたち…小さい人たちが、心豊かに生きて行けたらと願っている。

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子どもの権利からは少し脱線する。

たまに、例えば母と子どもが無理心中をしたり、高齢の親とその子どもが誰にも知られず餓死していた、なんていうことがニュースとなる。
そのとき必ず言われるのだ。
「なぜなんらかの介入ができなかったのか。周囲が気づかなかったのか」と。

それは確かにそうで、行政の不手際や不備で介入できないままのときはある。また、制度の隙間に取り残された人たちが身動きできずに苦しい状況のまま放置されることだってあるだろう。そこは大問題で、やはり改善していく必要がある。

一方で、その悲しい結末を迎えた当人たちが「助けを求めることは私(たち)自身の弱さを認めることになる」あるいは「助けてと言って良いと知らなかった」という状態だった場合も発生している。

私は強く言いたい。
あなたが弱いんじゃない。
周囲(例えば親戚など)の人が「みっともない」だとか「あなたが悪い」とか言っても関係ない。
助けてと言って良い。
助けて欲しいと言うのは、あなたの「権利」だ。

権利について知ることは、その人の人生そのものを左右することに繋がることもある。
そのくらい、権利は大切なものだ。

小さい人たちには、小さなときから権利をきちんと知っていて欲しい。
それは自分を守るし、誰か大切な人を守ることに繋がるのだと私は考えている。

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参考サイト
高見のっぽ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%A6%8B%E3%81%AE%E3%81%A3%E3%81%BD

子どもの権利条約(日本ユニセフ協会)
https://www.unicef.or.jp/about_unicef/about_rig.html

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