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きっと、誰のせいでもない

Twitterを通して、病児や障害児のお母さんたちの生の声を拝見する機会が抜群に増えた。

これまでも患者会でお母さんたちとお話することはあったものの、母たちの「心の内側」みたいなものを見ることはあまりなかった。
が、いろんな心情を吐露することのできるTwitterだと、その心の内側が垣間見える。

健康な体に産んであげられなくてごめんね

私のせいでごめんね

という、母たちの悲しみをたまに見かける。

そんなこと、思う必要ないのにな。
私はいつもそう思い、でもそこにコメントはしない。
そう思っている母に、何か言葉をかけることはできない。私の言葉はたぶん母たちには届かないから。母たちが、その気持ちを飲み込めるまで。

そう思う背景として、私は(主に17歳〜20歳代前半の)入院中に、ときどき病児のお母さんから「私のせいなの」というようなことを聞くことがあった。
私は「そんなことないよ」と伝えていたけれど、納得する母はいなかった。
結局、自分自身で落とし所を見つけなければその気持ちからは抜け出せないのかもしれない。
それでも私に話すことで何かしら落ち着くようではあるので、吐き出すことは大切だと感じている。

でもお母さん。

やっぱり、あなたのせいじゃないよ。


答えは出ない

子が疾患や障害を持って生まれたとき、その「原因」を知りたいと思うのは人として当たり前の感情だと思う。
例えば疾患が遺伝的なものであるなら、原因となる遺伝子について把握することが治療に繋がる、というケースはあるだろう。
でも、大抵はその原因を求めても答えが見つからないだろうし、原因(と思われる出来事)に固執したところで、事態が改善することには繋がらない。

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周囲の声も母たちを追い詰める要素かもしれない。

「あなたが厄年に産んだから」

「妊娠中に〇〇を食べたのが悪い」

「妊娠中、薬を飲んだでしょう!?」

…等々。

根拠はない。
けれど「そうかな」と思ってしまいそうだ(ほとんどのものが「ちょっと何言ってるんだかわからない」レベルに感じるけども)。

しかし私は不思議に思う。

子どもって、お母さん単体で誕生することはないはずなのだ。
お父さんもいるから授かるんだろう。

「ごめんよ…お父さんの精子が元気がなかったのかもしれない…」とか

「あの頃お父さんが風邪薬を連日飲んでいたから…」

あるいは
「お母さんが妊娠中、お父さんが何も手伝わなくて負担をかけたから…」

…と言ってむせび泣く父たちを、私はこれまで見たことがない。

なぜ、母たちだけが責任を感じならければいけないのか。

もちろん、私は子を成したことがなく、だからあなたに母の気持ちはわかるまいと言われてしまえばそれまでだ。
でも。でも。

お母さんのせいじゃない。


あなたの子を、私に当てはめてみて欲しい。…ちょっと、いやかなり歳食ってる子だけどもそこは気にしないで。

子どもに…私に、疾患があったことは悲しい事実だ。
私もできれば一般的な健康と呼ばれる子として生まれたかった。
でも違った。

それだけだ。

それだけなのだ。
それだけにして欲しい。

いくら探しても、答えは出ない。
そして私個人的には、母の、あなたのせいになどしたくもない。


呪いにしてはいけない

親子関係は様々だ。

いろいろな積み重ねでその親子関係は形成される。
他者から見れば良い親子関係だと受け止められる親子もいれば、最低と言われる親子関係もあるだろう。
でも本当のところはその親子でなければ、わからない。
いや、各家庭においては「自分の家庭」こそが標準なのだから、親子関係が「良い」のか「悪い」のかもわからないままの人だっているだろう。いわゆる「毒親」と呼ばれる親御さんのもと、ギリギリのところで踏ん張っている当事者だっている。

それでなくとも疾患や障害を持って生まれた子たちというのは、心身共に山あり谷あり崖もある子ども時代を過ごすのだ。
そして親はある程度成長するまでは…あるいは成人して以降もなお、その子の人生に、かなり濃密に付き合う必要が出てくる。
「疾患や障害がある」ことは、親子関係・家族関係を育む上で強烈なスパイスとなっている部分があるのだろうなと、個人的には考えている。

そうした環境の中、疾患や障害を持って生まれた子が思春期を迎え(あるいはもう少し早くから)、自分の中でフツフツと湧き上がるものがあり、最終的に「お母さんのせいで!!」と強く母を憎む人がいたっておかしくないし、実際に少なくない。

その気持ちは簡単にはなくならないだろう。
でも人を憎むと言うことは、とてもとても疲れるのではないかと想像する。気持ちを、たくさん消耗してしまいそうだ。
だからいつか、その気持ちが軽くなることを願っている。

けれども、だ。

けれども、生まれたその日から「お母さんのせいでこんな体に生まれた」などと考える子はいない、絶対に。


先ほども述べたように、親子関係は様々だ。
だから一概にそうだとは言えないことを重々承知で書く。

「私のせいで、ごめんね」

その言葉を、折に触れお子さんに聞かせてはいないか。

聞き続ければいれば思うはずだ。
「そうか、お母さんのせいなのだ」と。

母の懺悔が、子に呪いをかけてしまう

…かも、しれない。


私を否定しないで

私の母は、「私のせいでごめんね」というような言葉を発することのない人だった。

が、一度だけ。
少しいろいろあって、母の心が不安定なとき。

「健康な子に産んであげられなくてごめんね」と泣いた。

その頃私は20代。

私はびっくりしたし、悲しかった。

そういう気持ちがあるだろうとは思っていた。
でもまさかまだ、そんなことを思っていたとは。
私は成人も過ぎて、大人になっているのに。
まだ。
…まだ。

そして思った。

ああ、母はやはり健康な子が欲しかったのだ。
私のような子どもは求めていなかったのだ。

「母のせい」ではないことを、私も、母自身も本当は知っているのだから。
ならば多くの母たちが言う「健康な子に産めなくてごめん」は裏返せば「あなたが私の望む健康な子でないことが悲しい」ということではないのか。

…そんなこと、私の母は思ってもいないだろう。
わかっている。
母が言いたいのはそんなことではない。
わかってる。

でも、
「今の私を否定しないで」
そのような言葉を、母に言ってしまった気がする。

いわゆる健康ではない、心疾患のある私を否定しないで。

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私のせいで、健康な子に産んであげられなくてごめん。

お母さんたちの心は、お母さんたちのものだ。

想うことは自由だ。
思って泣いて-そんなこと思う必要もないけれど-それで落ち着くなら。
Twitterなり親しい人の側なりで吐き出せば良いと思う、じゃんじゃんと。
それでもなお、自分の中で消化などできないのかもしれない。
ずっとついて回る感情なのかもしれない。

でも、子どもに聞かせ続けないで欲しいと、私は思っている。

母たちは、自分を責める気持ちがあるのだろう。
けれどそれを聞くとき、子はとても複雑な思いに駆られる。

「母のせいなのか」
「母を憎めば良いのか」
「母は疾患のある自分が嫌なのだ」
「私が健康でなかったから悪いのか」



私の書きたいことが、皆さんに伝わっているか少し心配だ。

私はただ思うのだ。

生まれてきた子に疾患や障害があったとして、それは誰のせいでもない。

そして健康な子でなかったとしても、私は「私」なのだ。
だからできれば、悲しみに暮れないで。


この感情を何と呼ぶのか

私は今、とても不思議な心持ちになることがある。

私は、疾患や障害のある子たちにも、その保護者である母たちにも、どちらにも自分を重ねるようになっている。
もちろん母としても気持ちは、私が子を持たない以上本当に理解できているわけではないだろう。それでも、母たちのツイートを見ると胸がギュッとなるのだ。

そしてこっそりと思う。
ああ、お母さんたちと友だちになりたいなぁと。
そして「めっちゃわかるわ!」とか言いながら、そのいろいろな大変さを讃えまくって、ハグがOKの人なら抱きしめたい。
もしかしたらちょびっと一緒に泣いてしまうかもしれない。

でも私は疾患の当事者だ。子どもの立場なのだ。
母としての苦労がわかるけれど真実はわかっていないし、子どもの気持ちとしてわかって欲しいことがあるけど、きっとうまく伝えられないことも多くあるだろう。
微妙な隔たりがある。
…まあその隔たりは、私自身が作っているのかもしれないけれど。

まさかこんなに気持ちが揺らぐとは思ってもなくて、新しい発見だ。
私はこの記事を書いてる段階で43歳。
この年齢だからこそ抱いたこの気持ちがなんなのか、そして何と呼べばいいのかわからない。


応援している、なんておこがましい。
でも見てる。
ただ見てることしかできないけれど、子たち、そして当事者たちの、人生の終わりまで続くあれこれを自分に当てはめながら、背中を撫でたいと思いながら見てる。
母たちの頑張りや、悲しさや、喜びを、ときどきぎゅっと抱きしめたくなりながら。
見てる。

(…あんまり見てる見てると書くと気持ち悪いかな笑)

あまり本を読んで来なかった私、いただいたサポートで本を購入し、新しい世界の扉を開けたらと考えています。どうぞよろしくお願いします!