バーStairsにようこそ 第一夜
やあ、いらっしゃい。ここはバーStairs。
上に行く階段と下に行く階段があるけど
どっちにも行かない人が酒を飲む踊り場。
とりあえずビールでもいいけど、
カクテルを頼んでくれると嬉しいな。
でも、とりあえずビールだね?
***
1.岐路
私は毎日岐路に立つ。朝の窓を開け放ったとき、お昼どきのコンビニで小銭を落として放置したとき、アサヒとキリンとサッポロとサントリーとどれにしようか悩んで結局奮発してヱビスにしたとき、私は毎日どころか毎分ごとに岐路に立ち、朝の窓を開けない私、小銭をきちんと拾う私、ヱビスじゃなくてバドワイザーを買う私、無数の私が無数の宇宙で、さらに毎秒ごと岐路に立ち分裂してゆく。
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やあ、久しぶり、今夜は何を?
ブラック・ローズのガムシロップ抜き?
たまには甘くすればいいのに。
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2.相合傘
相合傘は肩が濡れてしまうから嫌いだと思いながら、道の先を行くきみを見ている。きみと相合傘したことが一度だけある。きみが覚えているかわからないが僕はあのとき雨に濡れたきみの髪が僕の首に貼りついたのを覚えている。
今、きみの相合傘の相手が誰かわからない。僕は足を早めて追い抜きながら相合傘のふたりの顔を盗み見る。きみは柔らかく笑っていた。それはいい。相合傘の相手の顔が黒く塗りつぶされた穴のように見えた。それは僕の心のせいなのか、それとも本当に黒い穴のような何かだったのか。
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お次は…ロブ・ロイ?
マンハッタンもおすすめだよ。
今夜はご注文通りにロブ・ロイ、
鮮やかに赤い酒を。
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3.赤い糸
「小指につながる赤い糸なんて嘘だと思ってるね?」
とバーテンダーは言った。
「そりゃ赤い糸なんて都市伝説だろ」
「さあね。とりあえずあんたの赤い糸は西の方角に伸びてるよ」
「え?」
正直驚いた。
付き合い出したばかりの彼女はこの街の西に住んでいる。
「いいよね、みんな普通に西や東や南や北、最悪でも地面の下に伸びてるんだ」
「いや地面の下ってなんだよ」
「ブラジルに運命の人がいたらそうなるでしょ」
「それはまあたしかに。ていうかその他にどこに伸びるんだよ」
バーテンダーはかすかに苦笑した。
「俺の赤い糸は天に向かって伸びてるんだよ」
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はい、こんばんは。
シャンパーニュみたいなウオッカライム?
難しい注文だなあ。
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4.ここではないどこか
ここではないどこか? 今どきボードレールかい、古いな、と言おうとして今この店にいる奴らは誰もボードレールを知りそうにないと考える。いや、意外と知ってるのかもしれない。どっちだろう。僕は田舎で賞を取っただけのつまらない詩人だ。全国で知名度がないのはもちろん地元でも知られていない。この店にいる連中が僕の詩を知らないのは間違いない。片手を挙げてウオッカライムを頼む。そして「ここではないどこか」はボードレールの「どこへでもこの世の外へ」ではないということに思い至る。ダメなのは僕だな。誰でも異世界に行く夢を見る世の中なんだ、異世界すらこの世になった。親愛なるボードレールよ、僕はどこに行くことを夢見ようか?
***
さていらっしゃい、ってあんたか。
明け方前には帰りなよ。
ほら、いつものブラッディ・マリー。
タバスコ多めで。
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5.朝日の温もり
何年振りだろうかと自分に問うてみるが、思い出せぬ。Interview with the Vampireを見たとき映画の朝日では感慨はあまりないなと思ったのを思い出すが、あんなのはごく最近のことだから思い出せるだけだ。長く生きた。もう消えてよいと思う。カーテンを開けて東の空を見つめる。日が昇ってくる。案外暗い。思い出にある朝より寒い。 しかし確実にこの身を焼く朝日、その温もりの懐かしさよ。
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さてそろそろ看板ですよ。
ここはバーStairs。
上に行く階段と下に行く階段があるけど
どっちにも行かない人が酒を飲む踊り場。
踊り場に長くいるもんじゃないよ、
おかえり、そしておやすみ。
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