見出し画像

再び、石神井で「銭湯」

 記録をたどってみると、石神井の「豊宏湯」に行ったのは2022年の秋であった。豊宏湯は西武池袋線の石神井公園駅から南口の商店街に入り、少し進んだ先にある。高架になって面目を一新した石神井公園駅だが、急行の停まる駅のそばに、昔ながらの銭湯があるというのも珍しいのではないか。場所は少し分かりにくいが、ファミリーマートのほぼ向い、住宅や店の隙間から煙突が見える。

ほんのり秋の空

 その日はサービスデーで、入浴料金が通常より安く、「よもぎ湯」を実施していた。今回、ペンキ絵や仕切りのタイル壁もじっくり眺めることが出来たのは、再訪で勝手が分かっていたからだ。余裕を持てたのはここまでで、湯温は相変わらずの激熱。年配客は迷いもなく、静かに浸かっているのだが、自分は隅の方で水を使って薄めるという体たらくである。この熱さに慣れる日は来ないと思う。
 脱衣所は天井が高く、解放感があって気持ちがいい。新聞の政治面に目を通し、体が静まるのを待っていると、いつの時代か分からなくなるのは前回同様だ。
  外に出て建物をまわると気づくが、豊宏湯はガスではなく、薪を使っているようだ。ペンキ絵を描いたのは、銭湯絵師の中島盛男さんという人で、銭湯めぐりをしている人は、こうした違いが分かり、楽しみを見出せる人なのだろう。

上がって「伊勢屋鈴木商店」にて角打ち

 石神井に住み始め、廃業をはっきりと認識している銭湯が二つある。下石神井にあった「栄湯」と千川通りを挟んで上井草にあった「ゆたか湯」だ。
「東京田園モダン 大正・昭和の郊外を歩く」(洋泉社)の中に都内の銭湯にまつわる数字が載っていて、1951年に1,393軒、1968年に2,408軒、それが2013年には645軒(東京都浴場組合)と、この時点でもピーク時の約四分の一になっている。
 昨今は毎日、風呂、シャワーを使わない若者が増えているそうだ。たいていの住居には備えてあるわけで、いずれにせよ、今の銭湯は実用よりも社交の一部、娯楽目的が勝っているような気がする。

 石神井公園駅から富士街道を西に進むと、「田柄用水」の名残がある「けやき憩いの森」が見えてくる。田柄用水はすでに地上から姿を消しているが、暗渠にはサインがあって、大量に水を使う銭湯もその一つだそうだ。事実、栄湯はかつての貫井川の上流にあたるし、ゆたか湯も千川通り沿いにあった。
 かつて田柄用水と橋があった角を曲がって、細い道を大泉学園の方に向かうと、西武バスの上石神井営業所が見えてくる。団地や学校、ファミレスなどと並んで、バスターミナルも当時、近くに水路があったことのしるしだという。正確にかつての水路と照らしわせたわけではないが、この辺りだってどれだけ変わったか分からない。畑や住宅、商店があって、視界が突然開けると、宮造りの「たつの湯」が現れる。

「たつの湯」の外観

 たつの湯の創業は1964年。佇まいというべきか、外国人旅行客がここに来たとしたら、驚くだろう。建物の立派さは「威容」と形容してもよさそうだ。よく見ると外壁は白とピンク色で塗分けされていて、どこかポップさも感じられる。
 堂々たる外観に圧倒されて入ったが、中はいたって見知ったもので、安心した。清潔で、銭湯特有のすがすがしい空気が流れている。
 銭湯には、やはり富士のペンキ絵が似合う。女湯の方の壁には赤富士の一部も見えた。ここも井戸水を薪で沸かしているらしい。この日、たつの湯は「シークヮーサー湯」の日で、浴槽の隅の方にシークヮーサーの実が浮いていたのは特別な気がした。

 湯上りには、もう何十年も飲んでいない明治の「フルーツ牛乳」を飲んだ。懐かしいというよりも期待通りの味がする。なぜかクラフトビールの品揃えが良く、たつの湯には「レトロ(懐古趣味)」を感じるよりも、「銭湯のある生活もいいな」と思えた。ここは家からは遠いいので、冬空では厳しいに違いないが。

 生活スタイルが変わる中、公衆浴場という存在が六十年も守られているというのはすごいことである。たつの湯には大泉に住んでいた落語家・立川談志さんも通っていたらしく、ますます貴重なことではないか。

近くの「青柳菓子店」にてシャインマスカット大福


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?