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石神井と太宰とネジアヤメ

 新宿に「風紋」という文壇バーがあった頃、主人の林聖子さんから、太宰治が湯豆腐を食べたという器を見せてもらったことがある。林さんは生前の太宰と親交があり、短編「メリイクリスマス」のモデルになった方だ。「風紋」はすでに閉店し、林さんもその後亡くなられている。適切な言い方か分からないが、器という形あるものを目にしたことで、生身の人間の姿が浮かび上がってきた。肉筆原稿を見るに近い体験だと思う。

「風紋」の入口

 石神井にゆかりのある作家・檀一雄は、太宰治との交遊を「小説 太宰治」という作品の中で描いている。「走れメロス」を書くきっかけとなったという熱海でのエピソードも紹介されるが、地元としては、石神井での出来事の方に強く興味がわいた。
 1937年、太宰は檀らとともに「青春五月党」なるものを結成し、妹の友人たちを呼び集め、石神井の池畔に赴いている。
「素晴らしい五月の太陽だった」。この一文を読むだけでも、美しい初夏と生き生きとした男女交歓の様子が思い浮かぶ。一行は荻窪から石神井まで歩き、三宝寺池のほとりにあった茶店「美晴亭」に落ち着く。
 戦後、檀一雄が石神井池畔で当時を振り返るくだりもある。「あれは五月であった。ネジアヤメが一杯咲き揃っていた日のことで、太宰も私も、そのネジアヤメを手に掴んで、写真にうつった。」と書いてあった。
 若い女性たちが年上の太宰たちを置き去りにし、ボート遊びに興じたのは、石神井池の方らしい。水路を堰き止めたボート池は1934年に完成した。まだまだ新しいと言える行楽地を訪れた彼らの高揚感が、残された写真からも伝わってくる。
 いずれにしても、もう90年ほど前のことだ。公園も池もそれなりの変遷を経ている。ただ、ネジアヤメとやらはどこかで見ることは出来るかもしれない。そう考えて、四月半ばから公園の中を探し歩いてみた。

 調べてみると、ネジアヤメとは青紫の普通のアヤメにしか見えない。長さ30~90センチの葉が2~3回ねじれているという。そのため、「ネジ」ということになるが、つげ義春の漫画「ねじ式」を連想したりもする。
 この季節、三宝寺池側の水辺観察園の辺りで咲いていたのはまずカキツバタだ。石神井池の畔で見かけたのが黄菖蒲。いずれも緑の中で小さい花をちらちらのぞかせ愛らしい。

公園のカキツバタ

 池から離れたところには、藤紫色の花が集まって咲いていた。名前を知らなかったが、ヒメシャガといい、これもアヤメ科なんだと。以前に檀一雄の邸宅があったあたりの道でも、花壇に立派なアヤメが見えた。「もしや」と思ったが、これはジャーマンアイリスと呼ぶそうだ。
 檀一雄はなぜ「ネジアヤメ」と決め打ちで書いたのか。「一杯咲き揃っていた」というのは本当だったのだろうか。誤認があったのでなければ、理由あって刈り取られてしまったのかもしれない。せめて色でも書いてくれていれば、ヒントになっただろう。

 その青春五月党の集まりはこの一回だけだったようだ。およそ十年後、檀は「石神井の宿」(旧「武蔵野館」 後の「石神井ホテル」)に住み、作家・真鍋呉夫から、太宰失踪の旨を知らされることになった。新聞によれば、「玉川上水に飛び込んでいる」模様と。
 檀はかつて太宰と酒を酌み交わした見晴亭へと場所を移し、激しい雨の中、「酒をあおった」とある。

日陰に咲くヒメシャガ

 石神井池の中に「中の島」という浮島がある。樹木が影を落とす草地に過ぎないが、ここにアーチ型のコンクリートの「太鼓橋」がかかったのは、公園が出来たとだいたい同じ頃らしい。下はボートでくぐることも出来るが、対岸へのショートカットにもなっている。
  石神井の詳しい歴史研究家・葛城明彦氏の推測によれば、青春五月党が写った集合写真は、中の島を渡った北西部のあたりで撮られたのではないかということだ。何の工夫もない地味な橋だと思っていたが、俄然、歴史ある、味わい深い場所に感じられてくる。

北側の「太鼓橋」

 昨年、太宰治が愛したという「三鷹跨線橋」取り壊しがニュースになり、連日、別れを惜しむ人が多く訪れた。これだって知らない人は電車で通過していただけだろう。撤去理由が老朽化とあれば仕方がないが、「昭和は遠くなりにけり」の一例をまた積み重ねることになった。作家ゆかりの場所が少しずつ消えていく。

94年の歴史に幕


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