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普通の貧困家庭の記録 | naru

本記事は、2020年6月頃に勢いで書き散らしたものに加筆修正したものです。

 先日、地方の貧困家庭に育った女性が、自らの経験譚を綴ったnoteの記事を読んだ。

 私自身も地方の貧困家庭の出身であり、『貧困とは、選択肢が持てないということ』というタイトルには大きく首肯した。同じ貧困層といえど環境が異なるため、記事内容すべてに共感できたわけではないが、その境遇の違いも含めて興味深く拝読した。

 だが記事以上に、私が衝撃を受けたのはこちらのツイートだった。

 貧困層が「あるある」と頷くこの生活実態に「気付かなかった」人が存在するという衝撃。

 なぜなら貧困層は、貧困層の実態に「気付かなかった」と曰う階層に住まう人々の生活実態に「気づいている」からだ。
 映画やドラマで描かれる「一般家庭」の日常。子供だけの部屋を持ち、ゲーム機を持ち、中学に入れば部活に入り、塾に通い、親に貰った小遣いを握ってディズニーランドに行く子供たちの姿。同世代の友人らのFacebookで垣間見る、子供のお食い初めや七五三といったイベントを祝う姿。一泊数千円から2万円の温泉旅館に宿泊する子供たち。スーパーに並べられた野菜や肉の産地を確かめ、国産を選ぶ子連れ女性の姿。
 常に横目で眺めていたから、全部気付いている。手に入らなくても全部知っているのだ。

 「気付かなかった」なんて、んなわけあるか。だって私たちは、ずっと肩を並べて隣に暮らしていた。彼らは気付かなかったのではない。関心がなかったのだ。そりゃそうだ、古来より、市井に関心を持つプリンセスは変わり者と相場が決まっている。選ばれた者は下を見ない。見なくていいように社会は作られる。小学校で銃が乱射されても、NYCの高層マンションには届かない。

 というわけで、地方の貧困家庭に生まれた私のささやかな実体験を元に「貧困層の暮らし」の一例を綴り、実態を文章に残してみることにした。元記事では貧困を少し自虐的な感性で捉えていたように思われたが、本記事はもう少しフラットな感性で書いてみようと思う。


 まず、私の両親の話を書く。分相応な暮らしを営み、多くを望まず、倹しく細々と生きる両親について、ただ記述する。

父について

 父は、農家の分家の四男坊として、終戦の前年に生を受けた。戦時下にあった1歳の頃、上腕に大怪我を負った父を祖母が隣村まで背負って歩き、麻酔がないためそのままナイフで腕を切って膿を出したところ、父が切り裂くような大声で泣き叫んだというエピソードは、祖母から何度も聞かされた。父の上腕に残る歪んだケロイドはその名残だ。
 祖母も兄弟も、父の少年期については必ず「こいつは困った奴だった」と口を揃えた。幼い頃から周囲より少し浮いていたそうだ。今思えば、父は所謂「発達障害」というやつで、おそらくADHDだった。父の兄弟は皆立派な会社に就職し、中にはトップまで昇り詰めた者もおり、マイホームを購入して子供を大学や専門学校まで出し、現在は退職金と潤沢な社会保障で悠々自適な生活を送っているが、父は違った。

 高校はすぐに中退。学生期間を終えた農家の四男に、実家での居場所はなかった。自営業を始めるが失敗。結婚するが上手くいかず、息子を前妻の元に残し離婚。その後母と出会い、母は私を身籠った。すぐに籍を入れたが、式は挙げなかった。私が生まれる直前、築30年を下らない、古い県営住宅の一室に居を構えた。壁は顔も知らない幼児の落書きだらけ、冷蔵庫の下には鼠が巣食っているオンボロ団地。私が生まれ、2人の妹が生まれ、5人家族になった。

 私が生まれた頃、父はトラックの長距離運転手として働いていたらしい。長距離運転に加え、重い荷物の上げ下げを伴うハードワークだ。一度通った道を記憶し、地図を見ずに再訪できる能力が、父の自慢だった。仕事で訪れた地の思い出話をよく私に聞かせてくれ、私は楽しくそれを聞いた。
 幹線道路の脇を母と妹と4人で歩いていた時、母が一台のトラックを指し、皆で父に目一杯手を振った記憶は今でも残っているし、父も度々口にする。

 トラックの長距離運転手は祝休日に休暇を取るのが難しいため、子供と過ごすのが好きだった父は転職する。父にはやはり会社勤めが合わなかったのか、その後何度も転職を重ね、転職する度に年収は下がっていった。副業として内職を始め、夜はテレビを流しながら内職に精を出した。定年を迎えたが退職金はなく、年金受給開始日が先送りされたため、内職と母のパート以外の収入が失われた。この時、末の妹はまだ高校に入学したばかり、私は大学生だった。

 定年後、長年の肉体労働が祟り、父は脊柱管狭窄症を患った。日増しに症状は重くなり、歩行が困難になっていく。年金が受給できないため、障害者年金を申請し、受理された。続けていた内職も、元請けの受注量が減少し、遂に打ち止めになった。

 現在、父は脊柱管狭窄症が悪化し、痛みに耐えながら寝たきりの生活を送っている。ADHDの父は、目立ちたがり屋だが友人を作るのは下手で、訪ねてくる友人はいない。近所の高校野球の観戦を趣味にしていたが、今はもう歩行が困難で難しくなり、寝たきりでテレビを見るだけの生活だ。

母について

 母は、駆け落ち同然に家を飛び出した祖父母が構えた古いアパートの一室に育った。祖父は少し発達障害の気があり、祖母は少し頑固なところがあった。女子は料理と裁縫ができなければならないという祖母の考えで、高校は家政科に通い卒業した。

 祖父母が入信していた宗教には、修行というプログラムがあった。自営業を営む宗教の構成員を住み込みで手伝うという、修行とは名ばかりの女中奉公だったが、この修行のために引っ越した地方で、母は父と出会う。

 母は私たち子供を保育園に通わせたがらず、学齢期まで手元で育てた。経済的には苦しかったが、「我慢こそ美徳」と子供に教え、節約に励んだ。祖母の影響か古い考えの持ち主で、女性が家庭を守ることに使命を感じており、中学時代の私の進学相談では「娘は高校に行かなくても良いと思っています」と言い放ち、担任を当惑させた。

 夢見がちなところのある母は、論理的思考を重視する私とはとことん性格が合わなかったが、主婦ネットワークに於いてはこの感情優位思考が大いに物を言った。地域活動やPTA活動をこなし、近所付き合いも良好で、パート先でも温かく人間関係を築いた。人を招いたり招かれたり、農作物を貰ったりギフトをお裾分けしたりと、温かい人間関係は貧困層の生活にもゆとりをもたらした。

 定年を過ぎた母は、今もパートで働いている。料理が好きな母は、調理系のパートを掛け持ちして早朝から働いているが、時間帯が不規則なため、身体的にしんどいことが多いと語る。

自分について

 ここからは、人生において貧困を感じたエピソードを羅列する。元記事に習い、一定期間毎に見出し化した。

幼少期

 築30年以上、風呂なし、トイレは汲み取り式のボロボロ県営住宅。持ち家がデフォルトの地方において、県営住宅とは「訳アリ家族が住むエリア」であった。今思い返すと、県営住宅のエリアは周辺地域の自治会から疎外されていたようで、そういえば近くの神社で行われる祭りの氏子も回ってこなかった。

 確かに、周囲には母子家庭や借金を抱えた家庭、障害者を抱える家庭など、「訳アリ家族」が軒を連ねていた。近所の気のいい兄ちゃんたちは中学入学頃からグレ始め、高校を卒業するかしないかの頃に子供ができたり、結婚したり、いつの間にか再婚したりした。そのうち一人は私の幼馴染と結婚し、幸せな家庭を築いているらしい。

 住戸に風呂はなかったが、庭に浴室を作ることは許可されていた。室内で服を脱ぎ、庭に出る扉を開けて飛び出し、庭に敷いた簀を踏んで走って浴室に飛び込んだ。

 衣類は、母が知人と定期的にお下がりを貰える関係を築いていた。ファッションへの関心が芽生える環境にない娘たちにとって、貰った服を居間に広げる時間がショッピングのようなものだった。

 玩具を買ってもらったことは数える程しかない。そもそも誕生日やクリスマスといったイベントを一切祝わないので、プレゼントという文化がなかった。「好きな玩具を買ってあげる」と親に言われたことは人生で一度しかないが、そのとき買ってもらった「大迷路」という玩具はお気に入りで、随分長じるまでずっと遊んでいた。

 読書好きな母は、車で30分以上の距離にある市営図書館によく連れて行ってくれた。就学後も、休日は定期的に図書館に通った。近所にブックオフができるまで本を買うことは難しかったが、自宅には常に本が溢れていた。

小学校時代

 私が小学校に入学する時、我が家はとても貧乏だったらしい。どのくらい貧乏だったかというと、ランドセルが買えなかった。母は人脈を駆使して、ちょうど同小を卒業した知人のお姉ちゃんのお下がりを譲ってもらえることになった。「◯◯ちゃんは物持ちがいいから、綺麗なやつだからね」と母に言われたのは今でも覚えている。
 とはいえ、物を買ってもらう経験に乏しかった当時の私の感覚としては「ふーん」くらいのもので、母が考えるほどのダメージは受けていなかった。確かに、手にしたランドセルは周囲のランドセルと比較すると古びていたし、少しデザインが違っていて気になることもあったが、当時既に人と違う生活に慣れていた私はほぼ気にしなかった。結局、このランドセルは12年間しっかりと使い込まれ、その寿命を終えた。

 入学式の日、教室に入ると、机の上にピカピカの学用品が山と積まれて私たちを待っていた。私は嬉しくなって机の間を歩き回ったが、周囲と見比べてみると、私の机の山が低いことに気づいた。チラチラと見比べると、どうやら「さんすうセット」が丸ごと無いようだった。
 入学式から帰宅した私の前に、小学校で見たのとはデザインの違う「さんすうセット」が置かれた。これもやはり、母が人脈を駆使して、隣の小学校の卒業生から譲り受けたお古だった。見知らぬ男の子の名前が書き込まれた「さんすうセット」に私は少し不安になったが、蓋を開けてみれば授業で使う機会は殆どなかったし、使用に支障もなく、周囲とデザインの異なる「さんすうセット」を使う私に変な言葉を投げかける同級生もいなかった。

 筆箱は、一番シンプルで格安な、赤色無地のものだった。キャラクターが描かれた鉛筆削り付きの筆箱に憧れたが、それは値が張るものだということは知っていた。

 小学校の音楽や図工、家庭科といった教科には、毎年のように何らかの購入物を伴う単元が計画されており、その度に業者からの購入物リストが配布された。ピアニカや絵の具セット、小刀、彫刻刀など、小学校生活の中でも一時期にしか使われない小道具のために、まとまったお金がバカスカと消えていった。

 我が家には小遣いという文化はなかった。アニメなどで、子供が親に小遣いを貰って駄菓子を買うシーンを見ると羨ましかった。あれは就学前だったか、親が気まぐれで50円をくれたことがあり、それを握って近所の商店に行き、自分でフーセンガムを買った初めての経験は今でも忘れられない。
 練り消しゴムや可愛いクリップなど、子供の世界にもいろいろな流行があったが、私はどれも買ってもらえなかった。消しゴムのカスを集めて練り、真っ黒な練り消しゴムもどきを作って気を紛らわせた。学校帰りに商店に立ち寄り、100円の練り消しゴムの色や匂いを楽しげに選ぶ同級生の姿が、別世界の住人のように見えた。

 私の小学校入学時、母の人脈で譲り受けたお古の勉強机はしかし、狭小の県営住宅には置き場がなかった。仕方なく4畳の物置部屋に置いたが、年子の妹が小学校に入学しても勉強机は増えなかった。置き場がないからだ。1つしかない勉強机を占有するわけにもいかず、私たちは居間で宿題をこなした。もっとも、テレビが流れる居間で話したり遊んだり本を読んだりする環境には慣れていたので、居間で宿題をするという状況を苦に感じた記憶はない。

 買い物では、我慢がデフォルトだった。
 例えば筆箱が欲しい場合、店に行って品揃えを確認する。このデザインがいいな、この色がいいな、この機能が欲しいな、と思う。でも我慢する。その店で1番安い筆箱でなければ買ってもらえないからだ。母親にこれが欲しいと言っても「1番安いやつ?」と聞かれ、売り場で1番安い物であると証明できなければ買ってもらえなかった。
 この「我慢」がデフォルト実装された精神は、長きに渡り私を縛り付けた。何かやりたいことや欲しいものがあっても、かかる費用を考えて簡単に諦めるようになったのだ。就学年齢頃には既にその精神が身に付いており、後述するが、部活への入部や進学先の選択など、お金がかかる選択肢はさっさと捨ててお金がかからない選択肢を選んでから、親に報告するようになった。私は親に「おねだり」をした経験がない。言い方は悪いが、この親に子供のおねだりに答える能力はないと、早々に諦めていた。

 貧困層だが、宿泊旅行には毎年行っていた。勿論旅館やホテルへの宿泊は難しいので、幼少期は車中泊、少し長じるとキャンプ場に宿泊し、旅行を楽しんだ。週末は少し足を伸ばした。子供の入園料が数十円と破格の大型動物園が隣県にあり、父はこの動物園が好きでよく私たちを連れてきたが、動物は何度見ても楽しく飽きることはなかった。外食は難しいので、母は弁当や水筒を準備して旅費を浮かせた。

 習い事もしていた。母は娘にピアノを習わせるのが夢だったのだそうで、またも人脈を駆使して個人ピアノ教室を紹介してもらったのだ。先生のご厚意で、週1回1時間月額1万円のレッスンで姉妹3人を見てくれることになった。レッスン時間は一人20分なので、しっかり練習しなければ進捗しない。この緊張感が逆に良かった。ピアノは、5歳から15歳まで続けた。
 父の年収の変遷をはっきり聞いた訳ではないが、平均250~300万程度だったと思われる。そんな中、ピアノを続けさせてくれた両親には本当に感謝している。

中学校時代~高校時代

 中高入学時には、母もパートを始めて貯金してくれたのか、制服も鞄もジャージも新品を買ってもらえた。制服スカートの洗い替えは誰かのお下がりだったが、腰を折ればウエストの調整ができるので気にならないことがわかった。

 勉強が好きだった私は、高校は隣県または離れた市の進学校を希望したかったが、通学費用を考慮して自転車での通学範囲を選択した。今考えれば、自転車での通学範囲に進学校が存在したのはラッキーだった。私立はそもそも眼中になかった。

 中学校に入学する頃には家庭の経済状況はほぼ理解しており、部活動への入部は最初から諦めた。どの部活に入っても追加の出費が嵩むからだ。中学校の卒業記念誌に部活毎の写真が載る友人たちが、少し羨ましかった。
 高校ではアルバイトを始めたので、部活にも入ることができた。但し校則ではアルバイトは禁止だったので、学校教員の居住地を聞き出し、目の届かない地域を慎重に選択した。幸い最後までバレずにアルバイトを続けることができた。長年小遣いがなかったので、自由になるお金を持つことができたのは嬉しかった。

 修学旅行など、学年毎の大行事に金銭的な事情で参加できないということはなかった。節目の費用を計画的に工面してくれた両親には、本当に感謝している。

 高校の友人とショッピングに出かけた際、4000円のトップスを「普通」と言って眺めている姿に衝撃を受けたのは、今でも覚えている。

 高卒で就職するつもりだったが、進学校に進学してしまったため就職先を斡旋してもらえず、高3の秋頃に大学への進学を決める。独学では英語の長文読解で伸び悩み、アルバイト代で3万円の長文読解用の教材を購入した。確か「直読直解法」に似たメソッドの教材だったが、最初の1単元をみっちり学習しただけで、長文読解で満点を取れるようになった。このメソッドは非常におすすめだ。

 大学進学を決めて赤本をいろいろと探る中で、受験時や帰省時の交通費がバカにならないことを知った。当時は歴史がとても好きだったため文学部史学科への進学を考えていたが、折角大学へ行くのだから将来性のある安定した職を得られる学部へ行きたいと考え併せた結果、最終的に地元国立大学の教育学部への進学を決めた。
 だが、地元国立大学は偏差値が少し低かった。今思えば、自分の偏差値に合った大学を選択した方が将来の選択肢が広がる場面も多かっただろうと後悔している。国立大学ならば学費の心配はほぼ無用なので、帰省費用などはアルバイト代から賄える。受験費用に少し無理をしてでも、自分の偏差値に合った大学を選択することをおすすめする。

 銀行員の父を持つ同級生は、有名な私立大学を片端から受験して数十万円を費やした末、浪人生活を送ることになったと聞いた。家庭環境の差を思い知らされた瞬間だった。

 そういえば、ヒオカさんの記事を見てふと思い出したので追記する。生理用ナプキンの件だ。

 女が4人いた我が家に、夜用ナプキンは存在しなかった。大人用おむつを半分に切って代用していたのだ。一般的に「夜用ナプキン」を使うと知ったのは、大学に入ってからだった。
 ナプキンが買えないほど逼迫した家計状況だったのか、単に母が大人用おむつに満足していただけなのかは知らないが、記録として残しておく。
 ついでに思い出した小噺をひとつ。団地の建て替えを機に水洗トイレになった我が家では、トイレの水を流して良いのは大きいのをした時だけというルールがあったのだが、生理中はそのルールの適用外とされた。

大学時代

 大学入学で最初の難関はやはり入学金だろう。授業料は免除されても、入学金まで免除される学生はほんの一部に限られる。私は、蓄えていたアルバイト代に親の貯金を足して支払ってもらった。

 私が大学に進学した後も2人の妹の高校の学費が必要だったため、仕送りは期待できないししたくない。地元とはいえ通学費用は相当なものになる。大学からの資料を読み漁った結果、学生寮の案内を見つけた。3食付き光熱費込みで月額14千円と破格であり、貧困層にはこの上ない救済だった。
 但し4人相部屋、築30年越えのお世辞にも良いとは言えない住環境と、学生寮というカオスな文化に耐える必要はあった。耐えられずに入寮早々に退寮する者もいたが、入寮を決めた学生の殆どは、この寮に住む以外の選択肢を持たない。この寮に順応するしかないのだ。
 私は思考を変えた。元来他人とのコミュニケーションが得意なタイプでは全くなかったが、表情と声の出し方を周囲に同化させ、相手の言葉に対する自然な反応を練習した。発露する身体表現の如何で、人間関係とは随分変わるものだ。

 寮は、大きくて足がたくさんある虫が頻繁に出没したり、誰が使ったかわからない絨毯が何重にも敷いてあったり、トカゲが出入りして手の中で眠ったりと、今思えば魔の巣窟だったが、すべて楽しかった思い出として残っている。

 大学入学後は、授業料全額免除、奨学金一種5万円、アルバイトの掛け持ちで生計を立てた。とはいえ、生活費だけならアルバイトでは月5万円も稼げば十分で、飲み会参加はもちろん、遊びに少し足を伸ばす余裕すらあった。教材や実習費用はもちろん、卒業式の袴や写真代などは、すべてアルバイト代から工面した。授業料全額免除、および学生寮への入寮による効果は大きかった。

 2年次以降は、食事が付かない寮に移動することになった。だがある日、アルバイトの給料日を前にして食料が尽きてしまう。同じゼミの友人が心配してくれ、自分のアルバイト先のコンビニの廃棄を集めて、父親の車でわざわざ届けてくれた。おかげで飢えを凌ぐどころかお腹いっぱいに食べることができ、友人の優しさに心から感謝した。
 食料が大事と学んだので、まかない付きの飲食店のシフトを掛け持ちすることにした。
 アルバイトの単価を上げるため、書店での立ち読みでCADを覚え、設計補佐のアルバイトを掛け持ちすることでだいぶ楽になった。ナレーションが得意だったので、ナレーターの仕事を請け負って報酬を貰ったこともあった。

 学生寮への入寮は、必然的に先輩との縦の繋がりを生んだ。新学期になると先輩の使わなくなった教材が放出され、教材の多くを無料で手に入れることができた。

 小中学校が同じで高校から仲の良かった友人が2年次から同じ寮に入ることになり喜んだのも束の間、その友人はたった数ヶ月で学生寮を出ていってしまった。彼女の口から理由は語られなかったが、実家の大きな一軒家で丁寧な暮らしを送っていた彼女にとって、男女が同じ屋根の下で自治という名のもとに奔放に暮らす学生寮は耐え難い環境だったのだろうと想像はついた。
 大学周辺で女性が住めるアパートは、家賃5万円を下らない。部活の役職に就いたり大学の研究会に所属したりと活発だった彼女だが、アルバイトをしている様子はなかった。

 在学中はとにかく必死でカリキュラムをこなすだけの日々だったが、今振り返ってみると、私の大学時代の思い出はアルバイトと寮生活と大学のカリキュラムだけだ。サークル活動や研究活動はもちろん、留学やボランティアといったプラスアルファの活動は全く眼中になかった。
 「留学費用をアルバイトで貯めた」「ボランティア活動に精を出した」といった経験談を聞くと、その意志と行動力に感心すると同時に、アルバイトで留学費用を貯めることができ、ボランティア活動に精を出すことができる環境の背後に何があるかを、今なら理解できる。

 長期休暇に実家に帰省すると、両親は帰省費用として1万円握らせてくれた。このお金は使わずに、両親のために貯金している。

 精神的に安定せず、大学に通い続けることもアルバイトを続けることも非常にしんどい時期もあったが、留年はおろか、成績不振で学費全額免除が適用されなくなった場合も即退学なので、ド根性で乗り切った。「気合いと根性」は、貧困の中で私が得た最も大切な精神だ。

就職活動

 教育学部に入学したので、教員採用試験を受け学校教員として就職するのが順当だったが、当時既に教員という職業の不条理性を十分に実感していたこと、さらに教員の奨学金返還免除制度も廃止されていたことで、新卒というカードを捨ててまで教員として就職するメリットは私にとって全くなかった。
 兼ねてよりITエンジニアへの興味が高かった私は、就職活動を開始することにした。最初は地元での就職を望んでいたが、地元には自分の希望する職種での就職先がなく、上京して就職フェアに参加したのを機に、都内での就活を本格的に開始した。

 アルバイトのシフトを調整し、2泊3日のスケジュールに予定を詰め込み、夜行バスで新宿へ向かい、新宿のネットカフェに泊まって夜を越した。月に2、3回のペースで通っていたので、ネットカフェの店員に顔を覚えられるほどだった。

 3年生前期までに欲しい単位を殆ど取り終えていたため、以降は就活とアルバイトに精を出す日々を送った。

就職

 就活にあたり、私の中には必須要件があった。社員寮を持つ企業であることだ。
 地方のしがない国立大学、しかも教育学部の出身とは厳しい条件だったが、ITエンジニアを志したのが良かった。昔も今も売り手市場であり、社員寮を抱える企業も多数存在する。おかげで何とか条件を満たす企業に内定をいただくことができた。

 これが、私の人生に於いては大きな転機だった。
 上京には通常、数十万円単位の初期費用が必要である。さらに、就職してすぐに奨学金の返還が始まる。通勤定期やビジネススーツ、仕事に必要な書籍やツール類の購入など、仕事のための初期費用も必要になる。就職してから数ヶ月間は収入より支出が多くなりがちで、生活基盤を安定させるのは困難だ。
 私が新卒で就職した企業では、新卒入社する者の引っ越し費用に一定額の補助が出た。且つ社員寮への入寮には、敷金や礼金、保証金といった初期費用がかからない。私は交通費のみで上京し、都市部に生活基盤を整えることができたのだ。
 社員寮は一般的なシェアハウス型で、定期的に寮母や有志によるお部屋訪問が開催されるなどプライバシーもへったくれもない環境だったが、4年間の学生寮生活に慣れた私にとって、それらは瑣末な問題であった。

 現在の私は、決して裕福とは言えないが、お世辞にも貧困層ではない。この安定的な暮らしを手に入れることができたのは、上京することができたこと、そして上京後の生活基盤を素早く整えることができたことにあったと考えている。

妹たちのこと

 妹たちは、地元の実業高校に進学した。

 簿記の資格を得たり、検定に満点合格して地元の新聞に載ったりと優秀だった上の妹は、経済学部への進学を考えていたようだが、実業高校から大学に進学するのは難しく、結局高卒で就職。
 その後、地元の青年と結婚して引っ越し、資格を生かして転職し、共働きで3人の子供を育てている。

 下の妹は、今考えればおそらく境界知能で、学業や人間関係に苦しみ続けた。高校卒業後は小さな会計事務所に就職したが、週6日勤務、毎日残業有りで手取り16万円もいかない職場環境に体調を崩し退職。以降はアルバイトにて細々と暮らしていたが、結婚を機に仕事を辞め、今は専業主婦だ。

 私の大学進学で家計が少なからずダメージを受けたとき、高校生だった妹たちは、授業料の免除を申請し承認を得ることができた。つまり我が家では、高等教育の学費は殆どかからなかったことになる。義務教育に於いては学用品だの制服だのと度重なる出費を要求してきた日本国には不満を募らせたが、高等教育に於いては一定感謝している。

最後に

 貧困への支援が叫ばれると、必ず生じる自己責任論。昨今は、思わず「それは分不相応だよね?」と言いたくなるケースも確かに散見されるため、自己責任論を唱える気持ちも分からなくはない。

 この記録は貧困脱出記でも、貧困備忘録でもない。
 ただ、発達障害への理解が追いつかない社会に苦しんだ父と、人脈を生かして貧しさを暖かさに変える母、その家庭で育ち、現在も倹しく生き続ける3人の娘たちを記録しただけのエッセイだ。

 先日母に、1万円に値下げされていたトゥルースリーパーを、3人の娘たちでお金を出し合って購入して贈った。大変喜んでくれた。