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テンプレートとしての独楽吟

幕末の歌人として評価の高い橘曙覧の業績は、詠まれた歌はもちろんのこと、独楽吟という形式を作ったことを見逃してはならないと思う。
定型詩に分類される和歌は、よく知られているように5・7・5・7・7、といういわゆる三十一文字で詠まれる。文字数以外に特に定めはないが、歌の性格上、その文字数の制限のなかで完結することが求められる。実際に作ってみると意外に難しい。

ビル・クリントンがスピーチで引用してから一般でも知られるようになった「独楽吟」という連作は、作品の味わいもさることながら、「たのしみは」で始まり「とき」で終わるという一つの形式をなぞることによって、歌を詠むときのテンプレートとして活用できる。

創作の難しさは、形式が自由であることが要因の一つと考えられる。
例えば、小説というジャンルは万人が小説として成立していると認めるものであれば、形式は問わない。
黒田夏子の芥川賞受賞作「abさんご」はそれまでの日本の小説の常識を覆して横書きでなされた。作品が「小説」として成立したから受賞したのであり、日本語の小説の地平を広げたものと言える。
自由というのにはこのような可能性がある一方で、成立する条件を明示することは困難である。どのようにして成立させるかは作家の力量にかかっているからだ。

おそらく曙覧にその意図はなかっただろうが、「独楽吟」を知って、これなら自分にもできそうだと思った人は私だけではないはずだ。
起承転結の起と結を提示することで、作者に承と転だけを考えさせ、しかもテーマや表現法の自由度を残してあるテンプレートとしての独楽吟はかなりの優れものといえる。
曙覧の連作はその活用例として読める。

和歌という定型詩のさらなる型として独楽吟をとらえ曙覧の歌を鑑賞するとき、万人に通じる「楽しみ」を作り出した曙覧の偉大さを感じる。

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