見出し画像

今日は美術館に行った

グッとくる作品があったのでその紹介. 紹介した作品は全て下の『国立美術館・所蔵作品検索』に収載されている. 

三輪晁勢 『家』1954年 大きさは113.5×162.0cm. 大きい画面の中に太い線で縁取られた家々が並び立っている. 縁取られた黒い線や矩形に塗られた壁紙の並びが、モンドリアンのコンポジションを彷彿とさせる. 

https://www.artpedia.asia/piet-mondrian/

三輪晁勢とPiet Mondrianが活躍した時代は重複している. しかも、前者は堂本印象の義弟であったらしく、三輪が堂本の影響を受けてヨーロッパの抽象表現やデフォルメに触れる機会はあったのかもしれない. まあ、そういう文脈は抜きにして、色彩や線の使い方にデザイン性があって、かつ大きな図面で描かれていて、 この絵が部屋にあるとグッと引き締まる感じがした. 

山岡良文 『消費都市』1935年 151.5×121.3cm コンクリートの建物が迫り来るような構図、その真ん中にいる洋服を着た男女. 昭和10年の「消費都市」はこんなイメージだったのか、と当時の世の中に思い巡らす. 1935年に起きた出来事を調べてみると、満州国皇帝の溥儀が初来日し、ナチスのハーケンクロイツが国旗に制定される、など. 対戦前夜の不穏な世の中で、消費する市民は日本の将来をどう捉えていたのだろうか. そもそも、当時の日本人はその「不穏さ」を感じ取れていたのだろうか. 

三島喜美代 この作家の作品は絵画ではなく、陶芸やインスタレーションである. https://mishimakimiyo.com 公式ページがあるので作品を参照していただきたい. 
インタビュー記事もこちらのウェブサイトに載っていた. ウェブサイトの趣旨がちょっとアレなことはさておき、そこに載っている三島の語りは作品の背景を知る上で参考になると思う. 作品を鑑賞して感じた、「きっとウォーホル等の影響を受けているのだろう」という印象は間違いではなかったと思う. 

ウォーホルの作品はアートとしてどう成り立っているのだろう、という疑問が僕にはある. 工業製品・広告を大量に模倣しこれでもかと展示することになんの意味があるのだろう、と思っていた. しかし、今回この三島の作品を見たことで自分の理解がおよぶような気がした. 広告や情報という大量発生し大量に消費されるものを「あえて」切り取り、絵画や陶芸という時間のかかる工程を「あえて」経ることで、たちまちに芸術性を帯びる. この「あえて〜した」という部分がこの種のアートをアートたらしめるものなのかな、と思う. 基本的な作画・造形技術はもちろんあるのだろうけれど、ウォーホルや三島の作品に本来的な審美的魅力が備わっているとは思えない. その点で言えば、三島の作品は若冲の細密な花鳥画やフェルメールの真珠の耳飾りの女、ミュシャの黄道十二宮には遠く及ばない、と僕は思う. もちろん、何を美しいと感じるかは人それぞれであり、それは美学の議論の範疇になってしまうし、そもそも三島の作品とそれらの「綺麗な絵」と同列に議論することはできないだろう. ただ、なぜそれらの絵と同様に現代アートと呼ばれる作品が美術館に収蔵されるのか、高値で取引されるのか、という意義を自分なりに咀嚼したい. 






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?