豆粒

先日購入した高層集合住宅の玄関に人が来ている気配がしたので、空を眺めながら飲んでいた熱いほうじ茶を置いて起って行った。
扉を開くと誰も居なくて、共同廊下の空虚な広がりの空気が無抵抗に軽く感じられ、構えた気持ちの持って行き場を無くした。
そうして扉を閉めようとしたら、足元に豆粒の様な人が居るので短叫に驚いた。
踏み潰しそうになり、あるいは踏み潰したかも知れなかった。
「これは失礼」
と非礼を詫びると、
「ご無沙汰致しまして」
と豆粒の様な人が云った。
余りに小さくて、その人が起って居るのか、手を突いているのか分からなかった。
以前に会った様な気持ちもしなかった。
「この様に高い所まで御苦労様で御座いました、何かとご不便でした事でしょう」
この部屋は天まで届く高層住宅の随分上の方であるから、当たり障り無く云ったつもりであったが、少しばかり、豆粒の様な人の癇に障った様で、
「その様な心配には及びません、ただエレベーターとホールの隙間を越えて来るのに随分知恵を使ったまでの事」
と云った。
霧が懸かった様で、誰だか判然とはしないけれど、
「兎も角お上がり下さい」
と云って招き入れたが、案の定、上がり框(まち)の所で豆粒の様な人は行く手を失って思案しているので、
「これは気付きませんで」
と手の平を上にして、豆粒の様な人の前に差出し置いた。
「これは恐縮」
と豆粒の様な人は、私の小指の根元の皺の溝あたりに両手をかけて、右足から這い上がって来た。
そうしてそっとリビングへの廊下に豆粒の様な人を降ろして、「こちらへ」と云い、私は先を歩き出した。
数える程に歩くと、背後で先程よりも少し大きな人の気配がしたので、振り向いてみると、豆粒の様な人が米俵位になっていた。
驚いたけれど、リビングのソファーを勧めると、米俵の様な人は自分で両手をかけてソファーに這い上がり、腰を落ち着けた。
「何か先程より大きくなられた様な気が致しますが」
と熱いほうじ茶を卓子に置きながら遠慮がちに聞いてみると、米俵の様な人は熱い茶を啜りながら、
「それは貴方が私を見下(みくだ)しているからですよ」
と云った。
何の事だか分からずに居ると、
「貴方は先程まで、今よりももっと私を見下していたからですよ」
と云い直した。
「そうですかねえ」
と曖昧に思案していると、
「そう云うものです」
と米俵の様な人が言下に決め付けるので、私は少し腹が立った様に思ったら、米俵の様な人がもう少し小さくなった様に見えた。
「しかし、先程エレベーターとホールの隙間で随分と難儀したと仰ったではありませんか」
「いいえ、それは貴方の幻聴ですな」
「まさか」
「あなたはよほど神経が参っている様だ」
「私が差し出した手の平にお乗りになったではありませんか」
「これは参ったなあ、貴方は相当だ、八段念に来ているかもしれないなあ、それは幻覚ですよ」
「まさか」
「貴方はもう八段念より九段念に及んでいる様だ」
そう云って米俵の様な人は古びた革の手帳に覚書きを記しているので、少しく不安になった。 
「まあ、そろそろ行きましょうか」
と米俵の様な人が云うので、そうなって居た様な気がして、行く事にして、玄関にて靴を履き、先に起って長い共同廊下をエレベーターへと向かった。
気持ちの何処かで小骨が引っ掛かっている様な感じで、足元もふわりふわりとする。
「八段念とか九段念とは何の事ですか」
私は前を向いて歩いた儘で、恐る恐る聞いたけれど、返す刀で、
「余計な事は聞かなくてもよいでしょう」
と云われた。
米俵の様な人の声がこれまでよりも大きくなった様なので驚いて振り向いてみると、米俵の様な人は、林檎の樹ぐらいに大きくなって居た。
ひどく驚いたけれど、これ以上何かを聞くのもはばかられ、無言の儘で歩いていると、いつも通っていたはずなのに、初めて通るような共同廊下が随分と長く感じられた。
五分も歩いてエレベーターの前に着いて、背後をうかがう様に振り向くと、林檎の樹の様な人は、東大寺様の大仏の様に大きくなっていて、もうその顔は遥かに上の方にあって、はっきりとしなくなって居た。
そうして其れを見て、私は口を開けた儘に呆けてい居ると、大仏の様な人の声が私の遥か頭上から降り懸かって来て、
「何段念でもかまいはしないが、早くエレベーターに乗りなさい」
と云っている様であったが、私の耳にはその声がひどく大きくゆっくりと反響して、耳の奥でウワン、ウワンとしていた。
私は嫌な予感がしたが、エレベーターに向き直って乗ろうとしてみると、やはり予感した通りにホールとエレベーターの間の隙間が三間近くもあって、到底飛び越えることも出来なかった。
途方に暮れかけていると、大仏の様な人の声が降って来て、
「貴方は十八段念にするしかないな」
と言い放った。

私は背後に居る知っている様な知らない様な人に、何だかひどく見下されている様な気持
ちがしてきた。

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