誕生日

また一つ歳を重ねました。
とはいえ、ただ生まれてから丁度23年経ったというだけなので、何かが劇的に変わるわけではありません。

年のうちに春は来にけり一年を去年こぞとや言はむ今年とや言はむ

『古今和歌集』1首目、春上の巻頭歌です。
この歌は暦としての一年の節目ですが、同様に私は「自分探し 映画」なんて検索しているうちにいつの間にか年齢が一つ上がっていました。

節目というのはそんな曖昧なもので、人間が勝手に節目を作っているに過ぎません。暦の節目はそれに社会が合わせているので現実に影響があることも多々ありますが、個人の節目なんて大したことはありません。

それでも誕生日という節目を大切にする人が多いのは何故なのでしょうか。
と書いてみたものの、あんまり興味はありません。ハッピーなことは多ければ多い方がいいのではないでしょうか。

ハッピーかどうかはともかく、節目というのはせっかくあるなら使うに越したことはありません。
例えば私は2020年と2021年の節目に、1年間を期限として5つの目標を立てました。今の所2つは既に達成し、恐らくあと1つは達成できます。

私の友人曰く、「目標は立てさえすれば半分は達成したようなもん」と。
これは証明することは難しいですが、私は経験則で概ねその通りだと感じています。

そのメカニズムを簡単に説明しておくと、「○○したいな〜」と思っておくと、ふとした時にいつでもそのことをやろうと思えるからです。
よく「目標を紙に書いて見えるところに貼っておきましょう!」というものも見かけます。それと同じです。ちなみにあれが上手く行かない原因は義務感による目標であるためであることが多いと思います。

まあ目標設定については色んな人が言っていると思いますしこの辺りにしておきます。「whyから始めよ!」ということで、本当にやりたいことを前提に目標設定をすれば、自然とそちらに向かって人生は進んでいくのです。
そういう意味で、目標とは人生の指針とも言えます。

指針というものは常に一定の方向に固定しなければならないわけではありません。進んでいるうちに別の面白そうな場所を見つけたら立ち寄ってみたり、そこから別の目的地を定めても良いでしょう。
とはいえ、常に羅針盤の針がぐるぐると回っていては困ります。360度見渡せば色んなものが見えて面白いですが、それはもはや羅針盤が無いのと同じです。羅針盤無しで社会という大海を進むのは大いに不安があります。しかし私は今この状態にあります。

私の場合は羅針盤を自ら壊し続けているようなものなので自業自得ですが、不安になることがあるのもまた事実です。
そうなると、仮にでもともかく進む方向を決めておくのが良いでしょう。

というわけで前置きが長くなりましたが、23歳の目標を決めてみようと思います。
思考過程はすっ飛ばして、立てた目標がこちら。でーん!

A.一人暮らしをする
B.何か一つの分野について10冊以上本を読む
C.何か習慣化する事を決めて、やる気の有無に関わらず継続する

Aはできれば来年4月から始めたいですが、もし金銭的な都合で難しいとしても、なんとかして次の誕生日までに一人暮らしを始めます。これは宣言です。

Bは一番簡単かもしれません。今のところ、経済学か心理学か哲学か美術か環境問題かなぁと思っています。教育系の本も読みたいですが、仕事と関わると義務になってしまうので、それはまた別にします。

Cは一番難しそうです。今思いつくものでは筋トレ、そうじなどでしょうか。

ここでふと、「ありがとうと1000回言われる」という目標を思いつきました。
ついでに「ありがとうと1000回言う」もいいかもしれません。
最近はほぼ毎日寝る前にリフレクションを行なっているので、その日の感謝をカウントしてみるのもいいかもしれません。

(睡眠)

少し話が変わります。ここからは起床後に考えたことです。
先ほど大学の後輩から「欲しいものありますか?」と連絡が来ました。
この後輩は先日カフェに行ってご馳走したので、多分そのお礼をしようとしてくれているのだと思います。
見返りが欲しかったわけではないので「人生の意味……かな」と誤魔化してみたところ、「形而上のものではなく形があるものだと嬉しい」とのこと。

こんな風に困らせるのも良くないかなぁという思いと、こういう時は素直にお礼を受け取ってもいいのかもなぁという思いから、少し真面目に考えてみました。
しかし、あんまり思いつきません。
一番初めに思いついたのはオススメのお店の情報。これは実体はないけれど形はあるでしょうか?
次にスイーツ。食べたら無くなってしまうけれど。ちなみに別の後輩はLINEギフトでローソンのスイーツを送ってくれました。見てないと思うけど、ここでも改めて感謝を。ありがとう。

色々と考えたところ、多分自分は形があるものにそんなに興味が無いのだろうなと思いました。
例えばファッションなどに殆ど興味がありませんし、最近少し気にしようとしているのは他人が気にするからという形而上の理由です。
他の人にも分かりやすい例で言えば、恋人へのプレゼントなどでしょうか。別に高い物が欲しいわけじゃないけれど、自分に高いお金を出してもいいと思ってくれるほど好きでいてくれることが嬉しいとか。時間も同じですね。

せっかくプレゼントをもらう気になったのに欲しい物が見つかりません。多分もらったら何でも嬉しいけれど、何でも嬉しいという態度も何となく相手に失礼かなと思ってしまいます。

自分の中で形のあるこだわりってなんだろうと考えると、本が思いつきました。
本は未だに電子書籍ではなく紙の本を本棚に並べています。
これは本がある環境が自分に影響を与えると考えているからです。目につくことで「久しぶりに読もうかな」と思うことがよくあります。

オススメの本をプレゼントしてもらう、というのはとても良いなと思いますが、自分が贈る立場になると結構ハードルが高いなと思います。
もし相手の気に入らなかったらなぁとか思ってしまいます。

あとはさっき出てきたファッションでしょうか。これは物が欲しいというより、その人の助言が欲しいです。服って結構高いのでお金は自分で出しますが、服選びを手伝ってもらうのもいいかもしれません。
ただこの後輩は律儀なので、お会計まで込みでプレゼントしようとしてくれそうな気がします。その辺りの遠慮とか駆け引きのような諸々があまり得意ではないので、良くないかなぁと思います。

こういう時にアイデアが出てこないのは、これまであまりプレゼントの経験がないせいかもしれません。お菓子はよくプレゼントしている気がしますが、誕生日プレゼントのような節目にふさわしい(?)プレゼントはあまりしてこなかったような……。
直近では小樽ガラスのコップをプレゼントしました。あれは自分好みのデザインだったので、自分の分も買っておけばよかったなぁとも思います。ただ今は実家暮らしなので、自分の趣味をあまり家族と共有したくない私は一人暮らしをするまで我慢することにしました。
あとはネックレスでしょうか。でも私はネックレスを普段しないんですよね。彼女からのプレゼントだったら喜んでつけますが。

このように考えていると、気持ちだけ受け取っておくというのがいかに穏便な方法かと思われます。
「気持ちだけ受け取っておく」というのはお世辞で使われがちですが、実際その気持ちが嬉しいというのは偽りありません。
「誕生日おめでとう」という言葉だけでも、その言葉を贈るのに一手間かかります。その裏には、意識的であれ無意識的であれ、相手が喜ぶだろうなという善意が表れているように思います。

というわけで、気持ちだけ受け取っておく、ということでいかがでしょうか?
お世辞ではなく、その気持ちだけで十分なのです。
そもそもお礼をしようとしてもらえるというのは自分が何か良い事をしたという客観的事実を得られるので、それだけで十分なお礼です。

それでもどうしても何かプレゼントしないと気が済まないという場合は、オススメの本を一冊か、また今度一緒にどこかへ行った時に似合う服を選んでくれたら嬉しいです。
どうもありがとう。

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