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読みきり連載 あり得ない殺意 1

はじまり



自分の気持ちを無視して生きてきた。無視というと、なんだかその意志があるようだが、楓のばあいは、単純に自分がどういう気持ちなのかわからないだけだった。感情が高ぶったり、落ち込んだりしても、それによって自分がどう感じているのかがわからなかった。自分の気持ちよりも、正しい答えを見出そうとしてきた。

そういう風に育てられた。無条件で目上の者に従い、周囲の者と同調する、そうすれば損をせずに得ばかりできるのだから、それがいちばん賢い生き方であり、唯一無二の正解であると、徹底的にたたき込まれた。そうするためには感情は邪魔になる。

損得勘定で「自分」を見失っていいのか?などそういう疑問を持つことはなかった。何があろうとも安泰と断言できる一族のメンバーであったから、教えを信じる強さに支えられ、揺さぶりに負けることなく、穏やかに生涯を終えられる可能性が高かっただろう。

美耶にさえ出会わなければ。
ただしその事変の訪れはずっと先のことになる。

楓は、偏差値よりも、上流を優先する女子校出身である。生徒だけでなく保護者から教師まで、何一つ経済面での苦労をしたことがない集団の中で育った。

附属の女子大へ進み、そこの教養学部で、日本女性として好ましい教養を身につけるための講義や実習を受けていてもまだ、自分の感情をつねに見失っていることを疑問に思うことはなかった。生まれたのは昭和の時代だったし、そういうことがあり得た。

就職することもなく結婚して、一族のメンバーとして最も重要な役割り、出産を2度経て、ようやく一人前と認められた。下の子が上の子と同じ中高一貫の私立校へ入学したところで第二段落が終了、これにより肩の荷が半分下りた。残りの大役は、子どもたちの結婚と親の介護だ。

しばらくは羽を伸ばしておいたらと労う義母の勧めで、とある茶道教室に入門することになった。月2回、3カ月に一度の芝居見物が恒例になっているお教室で、じっさいのところ茶道は名目の着物サロンだった。

だれもが正座を嫌がるこの久元茶道教室では、20人以上は座れるリビングのソファで、まずは互いの着物を褒め合い、それから茶道のプリントを一枚、黙読する。茶道の歴史や道具の説明文で、けっして難しいものではなかった。あとはひたすら子育てにひと段落ついた有閑マダムのお役立ち情報を交換するのが慣わしだ。たとえば海外旅行の訪問国はどうだったとか、エステや美容皮膚科などの効果、両親が通う病院や医師の噂話、高級老人ホームのサービス内容などだ。

入門から半年ほどが経ち、ようやく慣れてきたところだった。緊張がゆるんだせいか前日の準備が十分でなく、ギリギリの到着になってしまった。
12畳以上ある玄関ホールでは、毎回「正規のお弟子さん」が順番で受付をしてくれる。わき目もふらず一目散に出席カードを出すと、だれかが活き活きとした大きな声で旧姓を呼んだ。
「森村さん?森村さんでしょ?栞奈(かんな)女子大の」
栞奈女子大学では、苗字で呼び合うのは外部生である。内部進学者は下の名前をちゃん付けで呼ぶ。苗字が変わる結婚後もずっと交際が続くことが前提にあるので自然にそうなっている。そして、特に決まりがあるわけではないけど、外部生がこのサロンへ来るのは異例だった。楓はその違和感を言葉ではなく瞬時に肌で感じとった。いつものことだ、ややこしい事柄は言葉にせずに肌で感じとって対処する。しかし、相手がだれか認識できた瞬間、全身が熱を帯びた。
「え、まさか、胡谷美耶さん?」
「奇遇ねぇ、お久しぶり、元気だった?」

衰えるどころか、なお洗練された輝く満面の笑みに目を見張る。胡谷美耶は学園の誰もが知るアイドルだった。彼女が歩くところに華が咲く、いやでもそっちへ目が行ってしまう、それほど人を惹きつける魅力があった。芸プロからのスカウトをなんども断っているという噂を聞いたこともある。その、キャンパス1の有名人が楓のことを覚えていてくれて、しかも名前まで呼んでくれたのは奇跡に等しい---感動だった。

「はい、おかげさまで。あ、出席カードはもういただきました?」
楓は自分の出席カードにスタンプを押してもらいながら、何か手伝えることがあればと願った。

ちょうどそこへ教室の主、久元が戻ってくる。いまどきの80歳というべきか、年寄りには見えないシャンとしたご婦人である。
「あらまあ、もしかしてお二人はお知合い?」
「はい、大学で同じサークルでした」
美耶が快活に即答する。それだけでもう夢中になりそうだった。お師匠さんは品の良い笑みを浮かべてうなずいた。
「それはなにより、楓さん、美耶さんにいろいろ教えてあげてくださいね」
「はい、よろこんで」
お師匠さんは満足そうに楓を見ながら、持ってきた花柄の派手で小さな紙袋を渡した。
「こちらの説明もお願いしていいかしら?私は先に教室へ行って皆さんにお仲間が増えますとお伝えしますね」

お師匠さんが立ち去ると、受付けのお弟子さんがスタンプを1つ押した新しい出席カードを差し出した。美耶はそれをぞんざいに受け取っていたが、とりあえず無感情で流して、説明を始める。
「あとで出席カードにお名前を書いてくださいね。出席20回ごとに記念品がもらえるそうです。お茶の道具が一つずつ揃うと聞いています」
「なるほど」
「そしてこの中には、かわいらしいクマちゃんのカードスタンドが入っています。私がいただいたときは、玄関やリビングなど出かける前に便利なところにそっと置いてくださいとのご説明がありました」
「ふ~ん……」
美耶は気が乗らない様子だった。楓には、こんな風に他人から雑に扱われる経験がほとんどない。流そうとしたが流せなかった。名前を憶えていてくれたことに高揚感があった分だけ、落差が激しかった。この慣れない状況に、きっと自分の説明の仕方がまずかったと、自身に失礼な部分がないか探した。どのような邸宅にお住まいなのかも知らないで「玄関やリビング」と言うのは良くなかったかもしれないと、咄嗟にそんなことを考えた。
「あの、もしお気に障ったのならごめんなさい、わたくし、初対面なのに気軽すぎましたね」
美耶は意外とばかりに大きな眼で楓を直視した。吸い込まれそうだ。
「まさか、そうじゃなくて、あのね……」
もじもじとバツの悪そうにしている美耶に、楓は覚悟を決める。
「はい、どうぞおっしゃってください」
美耶が声を潜める。
「つまり、クマのスタンドにカードを立てかけて玄関かリビングに置くってことでしょう?」
「ええ、私はリビングに置いています」
「つまり、誰でも出席カードがチェックできる状態」
「そうですね…?」
「そう思ったら、どうして義母がここをつよく勧めたのかがわかったの」
美耶は肩をすくめた。肩をすくめるなど、内部生にはない仕草なのだが、それがまた魅力的だった。「義母に勧められたわけ」とは意味深長ながらも、なぜだかするっと頭の中を滑ってしまった。いやそうじゃない、ネガティブな感情が意識をかすめたのを気付かないふりでやり過ごしたのだった。そんな楓の葛藤に、美耶は大きくうなずいてみせた。
「やっぱりそう思った?」
答えはノーだ。でも、こんなばあいでも楓には同調のカードしかない。そのうえ、すでに美耶の虜だった。小さな笑顔で何度か小さくうなずいてみせた。

教室のドアを開けると、集まっていた者たちが一斉にこちらを見る。そして片っ端から恋する瞳になっていく。楓にはこういう経験がいちどもなかった。もちろんそれは美耶に向けられた瞳だけど、それでさえも嬉しかった。自分が美耶の隣にいることが誇らしかった。

したり顔のお師匠さんがポンポンと手を打つ。
「今日から皆さんのお仲間になりました渋島美耶さんです。ご主人は、渋島グループ会長の直系です、まだご帰国したばかりで、お子さんがこの9月にT大学に入学されました」
新人の紹介があるたび、どよめくのがお約束のサロンのはずが、一瞬でもそれが遅れたのは、ここにいる誰もが本能的に美耶がここでは異色の存在であると嗅ぎ取ったからかもしれない。しかしそれもわずかな時間だった。すぐに歓迎の拍手がわきあがった。

なぜだか楓はホッとして、美耶が自己紹介を始める前に、そっとその場を去ろうとした。そこをすかさずお師匠さんがこういった。
「そうそう楓さんは大学時代からのご友人だそうです、ね?」
ご友人ってわけでは…と否定するつもりで顔を上げると、羨望の眼差しがあった。その鋭さに何も言えなくなった楓はひとり顔を赤らめた。

「ええ、最初はとても緊張してしまって、でも楓さんがいらっしゃったのでホッとして、ほんとうに嬉しかったです」
美耶は堂々としていた。そういいながら楓を見て「いいのよ」と目で伝えた。

かくして二人が大学時代からの友人というのは既成事実となった。
楓には、美耶に惹かれている自覚はじゅうぶんにあったし、またこんな経験は初めてだと気づいていた。ただし、美耶の友人になれたことが嬉しいのか、嫌なのかはわからなかった。もっとも、そんなことを考えていたわけでもない。

                                続く


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