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あの作品のあのページへ行けば今の自分が慰められる/神マンガへの感謝状
神マンガに没頭してリフレッシュ
現代は、孤立しやすい世の中かもしれません。でもそのかわりというか、SNSの世界で自分が求める人を探すことが可能です。ゲームの世界に自分の居場所をつくることが可能です。
昭和は、孤立しにくい世の中だったでしょう。でも『スマホ』はありませんでした。『Yahoo!』だってまだ影も形もなく、『Google』や『YouTube』はそれよりも後で、『Twitter』とかは理解不能でした。
つまり、昭和は「検索」ができない時代でした。探せない、見つけられない、人づてに聞いてもわからない、それが当たり前でした。
居場所がなくてやりきれないとき、昭和はどうやり過ごしたのでしょうか。いろいろあるでしょうが、私にとっては「現実逃避」が効果的でした。ドラマや映画、文学に没頭すれば、一時的に嫌なことが忘れられます。
とくに漫画が好きでした。好きになった漫画家の数は、ギリシャ神話の神様よりも多いかもしれません。
そうした神様たちの作品が私の神マンガです。
神マンガとは、自分が何を感じ取るかで決まります。気に入ると、繰り返し何度も読みたくなります。読み込みすぎて、もしかすると独特な解釈が生まれたりしているかもしれません。
でも、どうかご勘弁くださいね。
それでは、昭和の時代に絞って私の神マンガをいくつかご紹介してから、最後に「今こそ読みたい神マンガ」を選びます。
水島新司さん
読んだ単行本の冊数トップは、水島新司さんの作品です。昭和の作品は、たぶんぜんぶ読んでいます。
野球は好きでしたが、主な理由はそれではありませんでした。水島さんは偏見がないというか、社会のあらゆる「隅」に目を向けている人だと感じたからです。弱者に対する「優しさ」と「支え」がありました。どの作品も一度読めば好きになりました。
代表作は、テレビアニメにもなった『ドカベン』(1972~81)でしょうか。
主人公、山田太郎は、早くに両親を亡くします。苦労は多いけど祖父と妹の愛情に支えられ、野球部の仲間に恵まれて、プロ野球選手を目指して成長していきます。(第6巻くらいまでは柔道部にいました。)
水島さんの作品で、私のイチオシは『あぶさん』(1973~2014)です。
主人公のあぶさん(景浦安武)は、底なしの呑兵衛です。早くに父を亡くし、母は再婚したからか、あぶさんには憂いがあります。
物語がはじまるとすぐ、会社を懲戒免職になります。ノンプロの選手でした。そのままどん底から這い出せなくても不思議じゃない人でした。
そんなあぶさんを、行きつけの飲み屋の父娘が支えます。
あるとき、あぶさんに千載一遇のチャンスが訪れます。南海ホークス(当時)のスカウトマン、岩田鉄五郎に誘われて、代打専門のプロとして野球選手に復帰したのです。
そうはいっても1年契約、ときには酒に飲まれることもある呑兵衛ですから、まだしばらくは綱渡りの人生が続きます。
この物語には、架空の人物も多々登場しますが、あぶさんが一緒にプレイしていたのは、実際のプロ野球選手でした。
試合だけでなく、他にも有名人は現れます。たとえば野村監督が、自家用車のリンカーンコンチネンタルで送ってやるよと、あぶさんを労うシーンがあります。あぶさんはあっさり断るのですが、こういう描写が、どん底から這い上がっていくストーリに現実味を持たせていました。
いいかげんもう大人だったあぶさんが、回り道をしながらも、人生をやり直していくことに勇気をもらいました。
少年誌や青年誌は、趣味の知識を得るとか、エンタメという点で優れています。扱うテーマがたくさんありますから、ほんとうにたくさん読みました。
水島新司さん以外は、高橋三千綱さん、梶原一騎さん、小池一夫さん、さいとうたかをさんの作品をたくさん読みました。
手塚治虫さんの漫画は、偶発的ではなく、自ら求めて可能な限り読みました。ほかにも、矢口高雄さん、小林まことさん、楳図かずおさん、山上たつひこさん、いしかわじゅんさん、弘兼憲史さん、浦沢直樹さん、たがみよしひささん、高橋留美子さんなどの作品を、夢中で読んだものでした。
でも、少年誌や青年誌に「共感」を覚えることは、そんなには多くありませんでした。水島新司さんは例外です。私にとっての神マンガとなると、そこはやはり少女漫画です。
キャンディ♡キャンディ
じつは『今こそ読みたい神マンガ』の文字をみたとき、すぐに思い出した作品がありました。子どものころの愛読書というのもあり、そしてほんのちょっとだけ出版社とかかわりがありまして、たまたまそこで聞いた話を思い出したからです。
月刊誌『なかよし』に連載された『キャンディ♡キャンディ』(1975~79)をご存じでしょうか?テレビアニメ化もされた人気作品で、記録的な売上があったそうです。
主人公のキャンディは孤児です。それゆえ苦労は多々ありますが、強運の持ち主でもあります。しかも、周囲のイケメンを片っ端から虜(とりこ)にしていきます。
それゆえ周囲の反感を買います。出る杭は打たれるとばかりに、くり返し、理不尽なイジメや裏切りにあいます。
それでもキャンディは卑屈になることなく、持ち前の明るさと粘り強さで前進していきます。
たとえるなら、貴族の世界バージョン『赤毛のアン』みたいなお話で、夢がありました。
でもわけあって2001年に販売中止になっています。理由は、原作者の水木杏子さんと作画者のいがらしゆみこさんとの紛争が解決できていないからとか。
出版社のほうでは、周年記念の式典があっても、『キャンディ♡キャンディ』という作品名さえ出すことができないそうです。
そんなわけでこの作品は、今のところ、かんたんには手に入りません。それでお勧めするわけにもいかず……すみません。
漫画家が好きな漫画家
『キャンディ♡キャンディ』が流行した1970年代は、少女漫画の世界の新しい才能が、いっきに花開いた時代だったように思います。
竹宮恵子さん、山岸涼子さん、池田理代子さん、里中満智子さん、一条ゆかりさん、大和和紀さん、美内すずえさん、魔夜峰央さん、和田慎二さん、三原順さんなどの作品が好きでした。
すべての作家さんの作品例をあげたいところですが、今回は、とくに好きだった、大島弓子さんと萩尾望都さんの作品にしぼっていくつかご紹介します。
1976年だったと思います。何の雑誌だったのか「好きな漫画家とその作品は?」というアンケート記事をたまたま目にしました。その回答者がプロの漫画家だったので興味を持ちました。そしてそこには、大島弓子さんと萩尾望都さんの名前がズラズラと並んでいたのをよく覚えています。
このときはまだ、そんなにすごいとは気づいていませんでした。でもプロが好きというからにはきっと何かあるぞと、以来、お2人の作品を探すようになりました。
大島弓子さん
大島弓子さんのいちばん有名な作品は、『グーグーだって猫である』(1996~2011)でしょうか。ペットロスを経た大島さんのエッセイ漫画です。猫の『サバ(シリーズ)』(1985~92)の続編ともいえます。
いつだって、大島さんの猫への愛情の細やかさと深さに感銘を受けます。
そして私にとっての神マンガは、同じく猫が主人公の『綿の国星』(1978~87)です。
主人公のチビネコは、青い目の真っ白な美猫、ふわふわのエプロンドレスを着て、肩にかかる髪もふわふわのカールです。大島さんは、猫を可愛く美しく擬人化した最初の人だったと思います。
チビネコは血縁者を知りません。物心ついたころから人間と暮らしていたので、いつか自分も人間になれると信じています。猫も人間のルーツの1つだと考えているのです。
ところが、野生の美しい猫、ラフィエルに出会ったことで、猫の世界の現実を学び、猫は人間になれないと気づきます。
猫と人間のはざまで揺れる心、飼い主との失恋から、チビネコはラフィエルとともに生きる決心をします。しかし運命のいたずらもあり、その道は断たれてしまいます。
そこへ猫アレルギーのお母さんが迎えに来て……
『綿の国星』はチビネコの視点で描かれています。純真無垢な子猫による先入観の排除、スティグマへの抗い。そして子猫だから許される、風刺があります。
萩尾望都さん
もうひとりの萩尾望都さんの代表作は、『ポーの一族』でしょうか。ここでご紹介するのは1972年~76年の作品ですが、40年経った2016~2017年に連載が再開されました。根強い人気がある証拠ですね。
エドガーは、14歳の少年でありながらバンパネラ(吸血鬼)です。育ち盛りに成長しないと周囲に不審がられるので、同じ場所に長くは棲めません。
そんなエドガーは一族の厄介者、バンパネラであることが恨めしく、そして憎んでいます。転々と棲家を換えながら、悲しい性で人を襲い、100年もそれ以上も、だれからも愛されずに、孤立して生きていくしかない運命です。
寂しさからエドガーは、妹のメリーベルや、友人になったアランを自らの牙でバンパネラにしてしまいます………
私自身がちょうど反抗期だったこともあって、永遠の中2病みたいなエドガーが大好きでした。
しかし『ポーの一族』は、14歳の私には難解で、理解できない箇所がいくつもありました。これが文学だったら、すぐに投げ出して、理解できないまま記憶の隅に放置されていたでしょう。
漫画は、読み返しのハードルが低いと思います。とくに萩尾さんの作品は、人物の絡みや背景の、アングルや構成の巧みに目を奪われて、わからなくても退屈しませんでした。
独特の雰囲気を味わうだけで十分で、何回も読み返していました。『ポーの一族』は、たぶん30回は読んだと思います。
いつしか萩尾さんの作品はぜんぶ読むようになっていました。ラブコメやギャグ漫画など軽く楽しめるものから、サイエンス・フィクション、ヒューマンドラマ、アートスティック、ファンタジーなど、その多彩な才能におどろかされたものでした。
作画者としての力量をみせつける作品もあります。
たとえば、SF作家、光瀬龍原作の『百億の昼と千億の夜』(1977~78)や、ジャン・コクトー原作の『恐るべき子どもたち』(1979)などです。
これらは、背伸びしてもすんなりとは受け入れられない内容でした。それでも萩尾さんの作品となると何度も読んでしまうから不思議です。
わからなくても、いつかは噛み砕いて消化することができる、成長の実感とともにそういうことを学ばさせてもらいました。
そして萩尾さんの作品は、心の支えでもありました。
辛いことがあると手にしたのが神マンガです。とくに萩尾さんの作品には、ずいぶん助けられました。
何回も読んでいると、どこに何が描かれているか、だいたい覚えます。
萩尾さんのあの作品の、あのページへ行けば、今の自分を慰めてくれる、この状態から脱出できる、そういうことができたのです。何よりも信じられる確かなものだったのです。この状態は、少なくとも何年か続きました。
そんなわけで、萩尾さんの作品は私にとってはすべて神マンガです。
迷うこともなく、その時の気持ちにピッタリする一冊を手に取ることができたというのは、考えてみるとまるで、プチ検索エンジンです。
現代ではちょっと考えられない脳内システムかもしれません。(今はスマホ検索の日々で、記憶力の必要がない生活を送っています。)
他にもいくつか萩尾望都さんの作品を紹介します。
『メッシュ』(1980~84)は、萩尾さんにしては長編のほうで、B6版の作品集で全4巻です。
このお話は、行き場を失った少年メッシュが、お人好しの贋作専門の画家、ミロンの部屋に転がり込むところから始まります。
両親の愛に飢えたメッシュ、復讐を胸に秘め、野良犬のようにさまよい、危険なにおいがする人物です。しかしそこはまだ少年、力のある者たちの餌食になる運命からは逃れられません。
そんなメッシュですが、ミロンという安心できる居場所を手に入れると、そこでさまざまな人間模様を学び、成長していきます。
萩尾さんはほぼ毎回、異なる人物との出会いを設定しています。
それらの登場人物の才能、美貌、貧富などがもつ宿命や格差に着目し、メッシュととことん絡ませて、その他の人たちとも絡ませて、各人の心理描写で個性を見事に浮かびあがらせます。また、アーティステックな試みが随所に織り込まれています。
そういう『メッシュ』の世界観が好きです。
『トーマの心臓』(1975)は、全寮制の男子校の寄宿舎で暮らす、男子生徒たちの絡み合いを描いた作品です。
主人公のユーリは、学校ではこの上ない優等生です。また、魅力的な風貌の持ち主でもあり、学校中の関心の的です。優しい母と可愛い妹がその支えですが、複雑な事情を抱えています。同時にある事件のトラウマに苦しんでいます。
頭脳明晰、臨機応変と欠点がない完璧なユーリですが、その行為がじつは「諸刃の刃」だと、トーマが気づきます。でもユーリの殻は閉ざされたまま、そしてトーマは忽然といなくなります。
同級生だけど年上のオスカーと、集団生活になじめないボンボンのエーリクが、不安定なユーリを心配して手を差し伸べます。
それを拒否するユーリ。しかしこの2人の干渉がきっかけになり、ユーリの精神の「箍(たが)」は、トーマの過去からの問いかけによって外されます。ユーリは自由になれたのです。
まだまだ偏見が強い昭和なのに、なぜか少女漫画ではボーイズ・ラブが大流行でした。
竹宮恵子さんにも『風と木の詩』(1977〜84)という大作があります。大島弓子さんもこの題材をよく取り上げていました。
ボーイズ・ラブだからこそ可能な表現があるのだと思います。
ところで私の神マンガには共通点があります。上でご紹介した『あぶさん』『キャンディ♡キャンディ』『綿の国星』『ポーの一族』『メッシュ』『トーマの心臓』の主人公がおかれた立場です。
これらの主人公たちは、事情があって長らく親と暮らせなくなっていますが、そのぶん支えてくれる誰かがいます。
私は、このシチュエーションが好きなのです。
今こそ読みたい神マンガ
でも「今こそ読みたい神マンガ」として、最後にご紹介する『訪問者』(1981)は、少し違います。
『訪問者』は100ページほどの短編です。主人公は、『トーマの心臓』のユーリの親友、オスカーです。オスカーの子ども時代のお話です。
『訪問者』のオスカーの父親、グスタフは(ときどきいなくなります)最後の別れのシーンまで一緒です。この作品を「今こそ読みたい神マンガ」選んだ理由がこれです。
グスタフは、狩猟が趣味のルンペンで、母のヘラは超現実主義のキャリアウーマンです。そんな両親の仲はうまくいっておらず、大喧嘩をすることもあります。まだほんの小さな子どものオスカーは、自分のせいではないかと心配します。
そんなある日、事件が起こり、ギリギリの線で保たれていたオスカーの基盤(家庭)が崩壊します。ヘラが急死したのです。
グスタフは、ヘラが亡くなった後の世間の干渉に嫌気がさして、飼い犬のシュミットとオスカーを連れて旅に出ます。
近隣社会や学校との関係を断つことになったオスカーは、父が母を殺したのではないかと疑いながらも、父に捨てられることを恐れ、父を守ることで自己を肯定しようとします。
その執着がむしろ父親を追い詰めることになるとも知らないで、懸命に良い子になろうとします。
私は20歳になるまでに10回も引っ越すような暮らしでしたから、友人がいない期間がけっこう長くありました。知らない家、知らない町、知らない学校にポンとおかれて、自分が誰なのかわからなくなることがよくありました。
小さいころはその自覚がないままで過ごしていても、小学5年生くらいからはいつも孤立を感じるようになりました。そういう経験があったからでしょう、オスカーの立場は理解できていました。
親がそばにいると、子どもは他人に頼ることができません。周囲もまた、手を差し伸べることができません。だけど離れて暮らすほうがまだましという親子関係があるのは確かです。
じっさいオスカーにもその兆候がありました。グスタフが戻らない日が続いたとき、宿の一家と行事を祝うなど子どもの時間がもてていました。
そうだとしても、オスカーにとっての父親はグスタフであり、グスタフもまた懸命にオスカーを愛そうとしました。それゆえグスタフには葛藤があり、オスカーには父への執着が生まれました。
オスカーの望みは最後まで叶いません。それはやむを得ない事情からなのですが、ほんとうに辛い結果が待っています。
それでもこの作品の見事なところは、オスカーの暮らしはこれからきっと良くなるし、いつかは孤立からも脱却できるという予感を残すところです。オスカーには明るい未来が待っていると、だれもが信じるでしょう。
それは『トーマの心臓』を読まなくてもわかります。そしてオスカーが孤立を脱却するのは『トーマの心臓』よりももっと先のことなのです。
最後までお付き合いありがとうございました。
※ 手元にない漫画の発行年や巻数などは、ウィキペディア等を参照しました。合わせて以下のサイトでも確認しています。
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