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病気の時の人との距離感【病気になって感じた事!本当に大切な人とは、、2】

こんばんは、ぱーちーちゃんです!

【病との付き合いの中での人との距離感とは1】の続きを更新していきたいと思います。

私はCKDの定期検診に8年以上通っていたので、今年の5月にまさかの「腎生検」や「血管炎の疑い」やステロイドパルスや免疫抑制剤の話をされるとは思ってもいない中での突然の宣告を受けました。

今まで「横ばい」で来れたものが突然暴れだしたのは、今思うと過度なストレスが一番大きかったようにも感じています。

それに気がつけたのは、「仕事を休まないといけないので病気について周囲の人に理解して貰わないといけない」と話をした後の人の対応を受けた事でした。

私は普段から凄く大勢の人の中に、リーダーポジションで立つ仕事をしています。人とのLINEのやり取りも多ければ、相談数や頼られたりする数も人より断然多い人生を過ごしてきました。

幼少期からこのポジションだったので「嫌」とか「きつい」と思うより「どれだけ寛大に居られるかは自分次第」と思って生きてきました。1でも書きましたが、きっと私は「健康だったから余裕があった」だけだったのだなと思うのです。

自身の状況を話した時、その場、その時は誰もが心配し、顔を歪めて「分かりました、大変ですよね」と理解してくれたように感じます。

でも、1日も経つと、「今はそんなくだらない事を何で愚痴って来れるの?」と思う事の愚痴相談や、「旅行に行ったけど楽しくなかった」「コンサートに行ってきたけど良くなかった」「ディナーに行ったら美味しくなかった」「習い事の練習に行きたくない」など、今の自分には遠すぎる話を普通に沢山される毎日が続きました。

「旅行に行けるだけ良いじゃないか、、」

「コンサートに行けるだけ良いじゃないか、、」

「何でも食べられるだけ良いじゃないか、、」

「練習に行けるだけ良いじゃないか、、」

どの話も、私が「今はそれは全部出来なくなってしまいました」と話した事は忘れられたかのように、

健康だから出来る当たり前の毎日の会話が繰り返される度に、人に会いたくない気持ちや、「あなたには分かるわけ無いよね」という諦めたような気持ちが止まらなくなりました。

どれだけ「今はそんな話は聞けない!」と叫びたかったを思い出す事が度々あるのですが、結論、行き着いたのは、頼られてはいるし必要にはされているけれど、心配は全くされていないのだという事と、人は自分のことで精一杯の人の方が多いんだな、ということでした。

そんな中、私が病気をして心から良く分かった事は、旦那さんと親友という「本物」の存在でした。

細やかな図り(目盛り)で、今その話をしたらどんな気持ちになるのか、、まで考えて寄り添い守ってくれました。

とにかく周りに大勢の人がいる私だからこそ、ひっそりと休養とはいかない中、そこを理解し、そういう「実は心配なんてしていない人達」「表面上の心配をしてくれる人」と接する度に感じる気持ちを救い上げてくれました。

私の中で、今まで人の為に一生懸命頑張ってきた事が「もうこんなに頑張った所で意味は無かったんだな」と諦めがつきました。

そして、旦那さんや親友の為に「一生懸命」を使っていこうと改める事が出来ました。

病気なんてならない事が一番ですが、なってみないと経験してみないと、当事者がどんな気持ちになっているかなんて分からないんだなと思いました。

自分も本当に気をつけていかないといけないと改めて感じました。

続きは、、

病気の時の人との距離感

【病気になって人に傷ついたこと3】へ続く。



今日も読んで頂きありがとうございました。

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