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あなたにとって幸福とはなんですか?

先日、「あなたにとって人権とはなんですか?」と問われた話を書いた。
それは幸せを追求する権利のことだったというのが結論なんだけれど、問われたときの話にはもう少し続きがある。
おれはその人に「なるほど。それではあなたにとって幸福とはなんですか?」と問い返した。


彼がなんと答えたのか、はっきり覚えていない。
「毎日『これでいいのだ』と思いながら眠りにつくこと」みたいなことを言っていたような気もするし、「それはとっても納得感の高い答えですね」なんて答えたような気もする。
でも、ひょっとしたら、脳内で作り出した偽物の記憶なのかもしれない。それくらいあやふやだ。

ともあれ、この会話をした頃から、ずっと思っていることがある。
それは「自分にとっての幸せ」を考えることはとても意味のあることだと思うけど、普遍的な幸福や幸せの定義、他者の幸福や幸せになるための条件みたいなことは、さほど真剣に考えない方がいいんじゃないかということ。
だって、それがわかったとしても、自分にとっての幸せが手に入りやすくなるわけじゃないから。

コペンハーゲンの街角で


「人間の究極の目的は幸せになること」という言葉をきっと聞いたことがあるだろう。
おれも実際そうだと思うし、それくらい「幸せ」は万人にとって最高に甘美なものなのだと思う。でも、だからこそ誤解しやすいんじゃないだろうか。
誰かにとっての幸せは自分にとっても幸せであり、自分にとっての幸せは誰にとっても幸せだと。

でも、自分にとっての幸福は、自分を見つめることからしかわからないんだと思う。だって主観だから。
最近は数理科学的なアプローチも多く、「ついに幸福が科学的に解明された」みたいな言葉も目にするけれど、統計上の主観の平均に過ぎない。

スコットランド国立近代美術館での展示作品の一部。トップ画像は美術館の入り口


とはいうものの、ある人にとっての幸福がどんなものかを聞くのもいいことだとは思う。
それを、自分にとっての幸福がなんなのかをくっきりと浮かび上がらせることに役立てられるのなら。
それに、その人の幸福に関与できる可能性も高まるしね。

この3つが揃っていることが、おれの幸福。

  • 自分を理解しようとしてくれる人が存在すること

  • 自分を応援したいと思ってくれる人が存在すること

  • 自分がそうした人たちの存在に値すると思えること

(ついさっき書いたばかりなのに、それでも、「やっぱり自分にとっての幸せは万人にとっての幸せなんじゃないか?」と思ってしまいそうになっちゃうもんだね。)

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