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能力社会への過剰適応とリハビリ

能力というものを都合よく定義し、それを人に求め続ける社会と会社。
そして定義された能力を無自覚に受け入れ、そのラベリングや採点に振り回される組織と人間。


そんな構図はなんとなく理解しているつもりだ。
だが、頭で理解しているのと自分自身を適応させるのって、結構別物だったりするんじゃないだろうか。
そしておれはその辺りが結構アンバランスな人間なんだと思う。
一見、能力に振り回されるのを拒否しているようなおれだが、その実、能力に振り回されているのだ。

おれは順位付けされることを極端に嫌う。
だから、優劣や勝ち負け、点数をつけられたり資格を与えられたり与えられなかったりという場には、極力近づかないようにしている。
ただその実態は、順位付けが嫌いなんじゃない。
「劣や負け赤点不合格」が怖いのだ。失敗に打ちのめされるのも嫌いだし「今回は本気じゃなかった」みたいな逃げ道に隠れようとするのも嫌だ。
いい結果が出ても、それはそれで安堵感に浸る自分に不安を覚えるし、「優や勝ち満点合格に喜び浮かれる自分」が嫌いだ。

自分の振り回されっぷりと浅ましさを目の当たりにするのが嫌なのだ。
そしてそのあと何年もずっと、そんな姿を晒した自分や、そんな感情を抱いたく自分を悔やむことになるのが恐ろしいのだ。
それが、おれが「優劣勝ち負け合格」を忌み嫌っている本当の理由だと思う。

「まあそんな自分でいいじゃないですか」とも思っている。
別に自分が嫌いだって自覚しているものに近づかなきゃいいだけだ。十分うまく適応できているじゃないか、と。

でも、ここからがおれのダメなところの本領発揮だ。
自分のそんな性質が嫌で嫌いだからって、優や満点合格を求める人間を醒めた目で見る資格なんてないし、他者のその姿勢を浅ましいものと評価する立場じゃない。
それなのに、そういうものを目前にしたときに、嫌悪感を発動させてしまうのだ。それはおれじゃないんだから、そんなに気にする必要ないのに。

「そんな自分が嫌い」を「他者にもそうあって欲しい」に結びつけるのはおかしい。
誰かの勝ちはおれの負けの上に成り立つわけじゃない。誰かの合格はおれの不合格あってのものではない。勘違いも甚だしい。
それぞれが皆、自分が求めるものを求めているだけだ。そしてそこにあるのはただの結果だ。
結果が与えてくれる充足感や、それを得るために費やした努力やエネルギーが与えてくれる自信や効力感が大切なのは間違いない。それを求めることの何が間違っているというのか? おかしいのか。

純粋に「楽しみ」としてそれを求めることは、何一つ問題ない。
少なくともおれにも誰にも悪影響を与えない。誰かがそれで幸せになるのなら、それを一緒に楽しんであげればいいだけだ。

「浅ましく見える?」それはおれのフィルターに過ぎない。
なんでもかんでも自分に投影するのはやめろ。
もう気づいているはずだ。お前のそのフィルターが、お前を純粋な楽しみから遠ざけていることに。

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