週記14【その日暮らし】

桜が咲き始めた。
モノクロのような街の景色が、仄かにピンクに彩られるこの時期。私は高揚感に包まれる。
少しずつ開き始める桜の花。日に日にその数が増えていく。一番始めに開いたたった一つの花も、満開になる直前、一番最後に開いた花も等しく愛せる。桜には、それほどの魅力がある。

と、私は男に伝えた。共感してくれるだろう、という魂胆があった。
すると男は予想に反して———予想に反する、ということはある意味、予想通りではあるのだが———口をへの字に曲げ、不機嫌そうな顔をした。
黒のスーツにオレンジのハンカチを挿している男は、煙草の煙をゆっくり吐き出した後、こう答えた。
「桜はそこじゃないだろう」
じゃあどこが桜のいい所なのだ、と問いただしてやろう、と一瞬考えたが、それだと男の思うつぼだ。男は鼻をかきながら長々と一人喋りを始めるだろう。
はっきり言って、今日は機嫌が悪い。いつもはさらりと聞き流せる長話だが、今日は聞き流すカロリーさえも惜しい。
しかし、体はそう感じていても、脳が勝手に口腔に命令を発していた。気づけば私は声を出していた。
「じゃあ桜の良さはどこにあるんですか」
男は案の定、鼻をかいた。彼が鼻をかいたときは、うるさくなる合図だ。

「確かに、桜が満開になった時の街は綺麗だ。薄いピンクは、外観の彩りとして完璧に近い色彩だろう。しかし、私は思うんだ。世間は、量に騙されているんじゃないか、とね。どの公園にも、学校にも、どんなところでも、至る所に桜の木は植えられている。そんなに大量に植えられていたら、春の景観はもちろん変わる。だから魅力的だ、と思える。
しかし、一本だけならどうだろう。桜の木と、桃の木、それぞれを一本ずつ並べたとする。どちらも花が満開になっていたとして、綺麗だと思うのはどっち?と聞いたら、五分五分、いや、もしかしたら梅の方が綺麗、と言う人の方が多いかもしれない」
結局、あれだけの量、花を見たら、どんな花であろうと、綺麗だ、と思うに違いない。桜に魅力があるのではなく、日本に潜む謎の組織による大量の桜の強要により、どんな花よりも特別、桜に魅力がある、と思わされている。
頭がずきずきと痛む。やっぱり今日は体調が悪い。体調が悪いから、長話を聞くのが苦痛だったのか、長話を聞くのが苦痛で頭が痛くなったのか、もう分からない。
「桜の木も梅の木も似たようなもんじゃないですか」
たんぽぽと比べてみたらどうなんですか。あんな小さな一輪の花より、枝にびっしりと咲き誇る桜の方が綺麗に決まってます。いつもより回転速度が振るわない脳を何とか回転させ、出した疑問はこれだった。
「たんぽぽにだっていい所はあるさ。アスファルトのひび割れた隙間で花開かせる黄色を見て心動かされる人だっているはずだ」
男の回答に納得しつつも、もうこれ以上聞いていられない、と体が音を上げている。こんなに気分がすぐれなくなるくらいなら、家で安静にしていればよかった、と今更後悔する。

目を覚ますと、夕焼けが喫茶店の窓から差し込んでいた。
テーブルの上でへたり込んでいた上半身を立て直す。変な格好で寝てしまっていたせいで、足元に血が巡っていなかったようだ。突然大量の血液が循環し始め、下半身が麻痺したような感覚に陥る。
男の姿は、男が頼んだコーヒーのカップごと消えていた。
あまりにも跡形がないものだから、初めて来店してから今まで、この喫茶店で会話していた、男という存在そのものが架空の出来事だったのではないか、と思ってしまった。
窓の向こうに見える太陽は真っ赤で、店前に植えられている、薄いピンク色を着飾る植物が照れているようだった。
橙色の桜。これはこれでいいものだ。
やはり、桜には魅力がある。男が言っていたあることないこと。それを全て受け止めたうえで、もしくはそれを全て差し引いても、桜は綺麗だ。
春だな。


散るときなんだよ。
男が言っていた。夢の中だったか、実際に口にしていたかは定かではない。夢の中でもうるさいなんて、救いようがないので、実際に口にしていたことにしよう。
男は、桜の一番美しいときは、その花びらが散るときだ、と言っていた。
冬の寒さをじっと耐え、やがてそれが去っていくと、貯めていた何かを解放するように、蕾がどんどん柔らかくなっていく。そして街を色づけたあと、春風に侵され、花弁が木を離れる。その時が桜の絶頂期だ、と言っていた。
空中に舞う桜の花びらが、ふわりふわりと舞い上がり、浮遊し、落ちる。そして地面に突っ伏すまでのその数秒。彼らはそのために耐え、咲くのだ、と。
話は変わるが、この世の全てがそういうものだ、と語り始めた。
美しく皿に盛られたフレンチ料理も、一番美しいのは消費者に貪られ、だんだんと皿が汚されていく、その間が。
天気だってそうで、雨が降った後に晴れて、やがて虹が見える。しかしその時が一番ではなく、雲一つない空に、少しずつ雲が現れ、やがて青空を覆いつくし、雨を降らすその日までが、一番美しい。
誰かが「やまない雨はない」といい始め、皆がその言葉を神格化しているが、私から言わせれば逆だ。「降る日はいつかくる」そう思う毎日だ。
まあ、この言葉を流行させるつもりは全くないし、私以外の人が言うことは無いと思うが。

そんなことを、言っていた、はずだ。
机の上に出していたノートの上に、一枚の桜の花びらが落ちていた。
春だなあ、と邪魔だなあ、が混在した、よく分からない感情で、花弁をゴミ箱に捨てた。

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