創作「空想喫茶 Timing~タイミング~」

僕はいつもの喫茶店でコーヒーを飲んでいる。先週までの、アイスコーヒーが体に合う気候だった世界が嘘だったかのようだ。
からんからんと店のドアが開く。現れたのは、茶色いスーツに紺のネクタイを締めた男だ。
男は店の奥に座る僕と目が合うと、目に少し光が灯ったようになり、はにかんだ。
店員に声をかけることもなく、こちらへと歩いてくる。
「光が灯っている、とはなんだい」
男はそう言って、僕の向かいの席に腰掛けた。
「言っておくが、さっき目が合ったとき、私は瞳に光が灯ったようにはなっていない。まして、はにかんでもいない。嘘を騙るのはやめてくれ」
「すみません」僕はすぐに謝罪した。「久しぶりなもんで、どう書き始めたらいいのか分からなくて」
とりあえず、この二人がこの喫茶店でよく相席する間柄だという情報、そしてあなたは見た目が紳士的な、少し思慮深い人で、僕は好青年だということを簡潔に伝える必要があると思って。僕がそう言うと、男はこう答えた。
「前提なんてなんでもいい。これまで我々が培ってきた年月や経験は、これから起こる事象や判断で分かることだ」
テーブル前にやってきた店員にアイスコーヒーを注文し終えた男は、胸ポケットからラークを取り出した。

煙がくゆるテーブルの上に、一枚の封筒があった。男が一吸い終えた後に内ポケットから取り出したものだ。
「なんですか、これ」
「気になるなら、自分の目で確認すればいい」
口で教えてくれればいいじゃないか、という台詞は飲み込み、僕は封筒を開いた。男が回りくどいのはいつものことだ。
中には紙が一枚入っていた。ワープロで打った文字で、こう書いてあった。

お前の言葉を誰が信用するんだ? 筋の通らないペラペラ人間!

僕は目をひん剥いた。理由は二つある。
一つは、この言葉に、大きな憎悪を感じたからだ。もう一つは、その憎悪が、自分の心のどこかと共鳴したからだ。そのときに「お前」「ぺらぺら人間」に当てはまったのは、目の前に座る男のことだった。
「誰が書いたと思う」男は僕に問うた。
「分かりません」僕は正直に答えた。
男は短くなった煙草を吸った後、それを灰皿でもみ消した。
「君はこれを見てどう思った」
「ひどい、と思いました」少しだけ共感しました、というもう一つの想いは伏せておいた。
男は少し頷いた後、届いたアイスコーヒーに口を付けた。
「もう少し考えてほしい。これをどういう人間が書いたのか」男の息が、コーヒーによって少し臭くなる。

僕はこの喫茶店でしか男と会わない。会話をする、という条件に絞ると、範囲はこのテーブル上だけになる。つまり、男が他の空間で誰とどう関わっているのかを全く知らない。
もしも男が胡散臭い演説を売りとして全国を練り歩いているならば、手紙の送り主はそこで演説を聞いた人の誰かだと推測できる。
また、男が普段は在宅ワーカーであり、最低限の人としか関わらないのであれば、これはただの迷惑便だ。もしくは、宛先を間違った手紙か。
いや、やめよう。男の背景から人物を絞る行為はできそうにない。今、僕が認識している事実だけで予測するしかない。

必死に考えた結果、僕の答えはこうだった。
「これを送ってきた人は、満足する生活を送っていないんだと思います。自分が誰かというのも開示せず、見ず知らずの人が見ても少し傷つくような言葉を活字にし、手紙として人に送る。今の生活が幸せで、満足している人間にはできない所業です」
男はじっと僕を見ていた。僕は続ける。
「それと、決して賢い人間とは言えないんじゃないでしょうか。この手紙を送った人は、送られた人の人格を否定していることになります。でも気に食わない部分があったなら、その考えを持った原因や証拠も提示すべきです。賢くない、というよりは、理屈よりも感情を先行するタイプ、というか。もしくは、普段は理性を保っているけど、感情を先行せざるを得ないほど揺るがされた。それほどの罪を犯したものにしか、こんな手紙は送られないんじゃないでしょうか」
頭の中で構築した思想を八割言ったところで、口を噤んだ。僕は少し焦っていた。送り主の特定をするつもりが、いつの間にか送られた本人である、男への文句に変わってしまいそうだったからだ。
男は僕が話し終えた後、ゆっくりと口を開き、種明かしを始めた。

「この紙は、私が作ったんだ」
驚きはしなかった。ただ頭の中にクエスチョンマークが湧いただけだ。
「文言はSNSから適当に拾ってきた。手書きにした方が言葉に迫力が出るとも思ったんだが、私の手で書くのは野暮だと思ってワープロを使った」
「なるほど」確かに、封筒には宛名も何も書かれていなかった。切手も貼られていない。
「で、どうしてこれを印刷して、封筒に入れて、ここまで持ってきたんですか」
男は二本目の煙草を取り出す。
「今はインターネットが栄えて、誰だって匿名性の高いままなんでも発信できる時代になった。メリットはたくさんあるが、その分デメリットも多い。間違った情報も散見されるし、情報の多さに戸惑うことも少なくない」男が吸ったタバコから、小さな灰が宙を舞う。
「また、誹謗中傷も問題視されている。特に私が気になったのはこっちの問題だ。人間同士のいざこざは、今の世界で一番重要視されるべきだからね」
僕は黙って聞いている。相槌も、頷くことさえもしない。
「芸能人や配信者が、誰かにとって不快なことをする。そのとき、不快になった『誰か』の数はどうだっていい。『不快になった人がいた』という事実があれば、あとは何でもいい。あとは坂道に置いたボールのように、事は転がっていく。そのトピックが表れるまで当人に興味もなかった野次馬が上からものを見たように発言する。自分の中で勝手に構築した社会というものさしをあてがって、善悪を判断する」
ここまではまだいい。男は続ける。
「ゆくゆくは、不快感を与えた人間は何らかのペナルティを受ける。これが、本当に社会の大部分にとって良くないことをしたのであれば、その罰も仕方ないかもしれない。しかし、罰を与える原因となった者の中には、『ただの憂さ晴らし』の奴がいる。淘汰すべきはここだ。よからぬことをした有名人でもなく、主義主張を発信する無名人でもない。転がるボールを、さらに下に蹴とばすことに日々の悦びを求める者。彼らをどうにかしなければ、SNSの濁った雰囲気は消せない」

「だからと言って、僕らが出来ることは無いでしょう」このへんで僕は、男の意見に少し反発する。いつもの役割だ。
「貴方の言う『彼ら』に、僕らが声をかけたとして、彼らは変わるんでしょうか。こんな無名の僕たちに」
男は僕の目を見ていた。
「君の言うとおりだ」男から放たれる息が、僕の前を過ぎる。タバコとコーヒーの臭い。
「我々に彼らを変えることは至難だ。勿論我々は無名だし、君の言うとおり、彼らが今の生活に不満で、ボールを蹴ることが唯一の息抜きなのであれば、阻害することが必ずしも正解ともいえない」
男のコーヒーカップには氷だけが残っている。カップの外側がうっすらと白い。
「ただ、主義主張を発する場として使っている一般人の中には、彼らに立腹する者もいる。何とか一矢報いようと、彼らの心に刺さりそうな言葉を選択し、発信する者もいる」男は紙を封筒に仕舞いながら、続ける。
「残念ながら、どれだけ棘のある言葉も彼らには刺さらない。刺すべき場所が間違っているんだ」
僕は尋ねる。「じゃあ、どうすれば彼らを傷つけられるんですか」
男は言った。「君はさながらハンムラビ王だな」
目には目を、歯には歯を、ではいけない。彼らには目がないのだから。
「こっちは目を刺されている。でも相手の目は刺せない。ならどうするか」
男は黙って煙草を灰皿に押し付ける。こちらが聞かなければならない。
「どうするんですか」
「刺さなきゃいい」
「へ?」
「刺さないどころか、触りもしない。彼らの言葉に動じずに生きるんだ。蹴っても加速度が変わらないボールを、いつまでも蹴り続けたい人はいない。気が付けば彼らは消えるだろう」
ハンムラビと言うよりは、ガンジーの戦法だ。そう言った男は、コーヒーの横に添えられていた水に手を付けた。

そう簡単にいくか?僕は疑問だった。
それに、彼らを処刑するのは、今である必要があるのではないか。
彼らも人間ではあるが、ネットを介して人を傷つけているのに変わりはない。合法の傷害罪ではないか。彼らこそ真っ先に罰を受けるべきであり、そういった存在の消滅こそ、いま世界が一番に解決すべき問題なのではないか。でないと、時効になってしまう。
僕が釈然としないことに気付き、男は言った。
「時間の持つ力は偉大だ。長い時間をかければ、傷跡は残るかもしれないが、傷は癒える。そして、簡単には傷つけられない人間を傷めることもできる」
男から発せられるこの言葉は、妙に説得力があった。まるで、長い時間という物を、物理的な何かとして捉えているような喋り方だったのだ。

すっかり冷めたカップに残っていたコーヒーを飲み干し、僕は席を立つ。男も同時に立った。
「そういえば」僕は、今日の話題とは少し逸れた場所にあった疑問を投げかけた。
「どうして、わざわざSNSの文言を紙に印刷して、封筒にまで詰めて見せたんですか」
男は何かを企むようなにたり顔をした。
「君は、この手紙が、私に送られた文句だと思っただろう」
図星であることが顔に現れないよう注意を払ったが、不自然だったのだろう。男はこう言った。
「その反応が見たかったんだよ。こんなペラペラ人間の言葉に耳を傾けてくれて、ありがとう」
自信に満ちたような顔で言い残した男が、僕は気に食わなかった。

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