2022 週記11【19か20】

私は喫茶店の隅の席でアイスラテと共に休息していた。ここで心も体も休めることが、最近のマイブームだ。
入口についているベルがちりんちりん、と鳴る。そしてその音に負けないくらいやかましく入ってくる男の姿があった。
彼はこの店の常連だ。たぶん。
確信がないのは、いつから通ってるか、という話をしたことがないからだ。

ここに初めて訪れたときに相席したのが彼だった。おしゃべりな彼は初対面の私にも気さくに話しかけてくれ、仲良くなった。連絡先を交換するような仲ではなく、この喫茶店でもう一人の姿を見たら相席をするくらいの仲良さ、だ。
紳士服にハットにステッキ、革靴に顎鬚、というスタイルはいつ見ても不変で、パジャマも同じ格好なのではないか、と思ってしまうほどだ。それは嘘だが、その姿はとても様になっていたし、逆にカジュアルな着こなしをイメージできないという意味では本当かもしれない。もしもパーカーとジーンズを着た彼と町ですれ違っても、私は一切気付かないだろう。
このテーブルに二人で向かい合うとき、会話の主導権はほぼ彼が握っている。いつから通っているか、尋ねていないのはそれが原因だ。私もそこまで気にしていない。

男は私の向かいに腰掛け、聞いてくれよ、と言いながら胸ポケットからたばこを取り出した。
「ここ、禁煙ですよ」
店員が来るより先に私は注意した。男は「いや、非禁煙だ」と言った。
禁煙に非ず。禁煙じゃない。二重否定でややこしいと思ったが、そんなはずはない。この喫茶店は私が初めて訪れたときから禁煙だったはずだ。トイレのドアにも、たばこのマークに赤いばつ印が付いてあったのを覚えている。
もう一度、ダメですよ、と忠告したが、男は「いや、大丈夫になったんだよ」と言った。
大丈夫になった?
昔、骨折していた友達が、昼休み、校庭に現れた時を思い出した。
友達に、バスケできんの?と聞いたときにも同じ言葉が返ってきた。
男も骨折していたのか?
「前まで禁煙だったが、先週、禁煙にするのをやめたんだよ。ここの喫茶店が」
男にそう言われ、はっと気づく。そういえばさっきトイレに行ったとき、ドアには阪神の日めくりカレンダーが貼ってあった。壁でいいだろ、普通、動く物体に日めくりカレンダー貼るか?と心で突っ込んだのを覚えている。
「あれは禁煙マークの代打だったんだ」
「店主は、巨人ファンだと睨んでいたんだが」男はなぜか肩を落としている。

男が一本吸い終わった後、「そうだ、話を聞いてほしいんだ」と言った。そういえば座って早々そんなことを言っていた気もする。
「この間行った銭湯での話なんだが」

男は半年ぶりに銭湯に行ったそうだ。
行きつけの銭湯、というものはないが、一度行った銭湯は二度も行かない、と決めている男は、その日の目的地も初めて見る装丁だった。
店の名前が書かれた大きな看板は貫禄があり、入る前から老舗の味が染み出ていた。
「しかし、浴場の環境は芳しいものではなかった」と男は続ける。
外観も脱衣所も、浴場の設備も申し分なかったそうだ。唯一、男が不満だったのは、一緒に湯につかっていた常連の態度だった。

「一見さんを神様だと思えとは言ってない。私もそこまで図体のでかい人間ではない。しかし、常連が神様の扱いを受けるのなら、一見が一般人の扱いを受けるのは間違いだろう」
男は鼻を膨らませながら言った。通う頻度に関わらず、利用者は平等であるべきだろう、と。
ここで私は思った。男は、どれほどの仕打ちを受けたのだろう、と。
内容を聞いて、あまりにも酷いなら電話で苦情でも入れてやろう、と思っていたが、それよりも、男にあった災難は、大したものではないだろう、という疑心があった。事実、過去に男は、路線バスの到着が2秒遅れたくらいで怒ることが出来た。

そして聞いた結果は案の定、だった。
「電気風呂は一人10分までって書いてあったんだ。なのにあの男は一向に立とうとしない。この罪を許せるというのかい?」
許せますよ、と即答したいが、その言葉は飲み込み、代わりに「じゃあ注意すればよかったじゃないですか」と言った。
男は短くなったたばこを灰皿に落とす。
「注意して、代わってもらった電気風呂を最大限楽しめる人間ならとっくにそうしてるさ。しかし、注意して嫌な顔をされることを想像してしまう人間は、代わってもらっても、妙な罪悪感を抱いてしまうんだ。悪いのは向こうでも、罪悪感はこちらに残るんだよ」
男は2本目を箱から出し、火をつける。
たしかに、と思う。男の言っていることはとても共感できる点があった。
罪悪感は罪を犯していなくても持てる。逆も然り。そして罪悪感は、罰として機能している。情状酌量というものがある限り、これは過言ではないと思う。これが、つらい。
私がネガティブなのが一因かもしれないが、ことあるごとに罪悪感を持ってしまう。その全てが正当な罪に対するものだとしても、にしても致死量の罪悪感を貰っている。
生きづらいなあ、被害妄想。とは常々思っているのだが、それをこの楽観的な印象しか抱かない男が思っているとは。
人は見かけによらない。



あのお、と声をかけられたのは男だった。
たばこをふかして俯瞰を眺めていた男は、はっと振り向き、声の主に焦点を合わせる。
「すいません、それ、読まないなら、貸してもらっていいですか?」
主は紺のジャージ上下に、ボサボサの茶髪を生やしていた。私と同じ、大学生のように見受けられた。
テーブルの上には、男が喫茶店の入口から持ってきた新聞が置いてあった。右側を喫茶店特製のクリップで留めてあり、バラバラにならないようにしてある。
男は読んでいなかった。たばこをふかして、ぼうっとしていた。
しかしジャージの大学生にそう言われ、男はむっとし、「いや、これから読むんだよ」と突き放すように言った。表紙を凝視し、ほお、今日は夜から雨が降るのか、と呟いている。
ジャージの大学生は諦め、呆れと哀れの混ざったような表情で引き返していった。
「一見さんは神様と思わなくていいんですか?」
私は聞いたが、男はそれに応えず、ただ新聞を読むだけだった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?