2022 週記9【Oh! Darling】

「勉強中かい?」
男は私のイヤホンを外し、耳に吹き込むように尋ねてきた。
「見たらわかるでしょ。邪魔しないでくださいよ」
私は机の上に広げた教科書やノートを指し示した。しかし、男は悪びれることなく、見て分かるほど勉強していなかったから聞いているんだよ、と言った。
「店に入ってからずっと君を見ていたけど、携帯に釘付けだったじゃないか。調べ物なら分かるが、机の上には電子辞書がある。テスト範囲の確認にしては、携帯を触る時間が長すぎる。指の動き方から見ても、フリック入力してるようにも、何かをスクロールしてるようにも見えなかった。どちらかと言えば、盤面のパズルをくるくると動かして揃えるような……」
「分かりましたよ。降参です。その通りですよ」
名探偵ぶらないでください、と負け惜しみをこぼしながら、アイスカフェラテの入ったコップを手に取る。水滴が指を湿らせた。
「最近ミステリ小説ばっかり読んでてね。ついつい推理しちゃうようになってるんだ」
流れるようにやってきた店員さんに、その流れを止めることなくアイスコーヒーを注文した男は、私の向かいに腰掛けた。
「その、すぐ影響される癖、やめた方が良いですよ」
「やめたくてもやめられないから癖なんじゃないか。そもそも、喫茶店にまで来て勉強を怠っている君が何と言おうと」
仰る通りだったので口を紡ぐ。

最近通い始めた喫茶店。モダンな雰囲気で、うっすらとクラシックがかかっている。
男と出会ったのは、最初にこの喫茶店にやってきたときだ。
相席よろしいですか、と訊ねてきた男は、黒い紳士服に身を包み、ハットにステッキ、革靴に顎鬚、と、現代ではむしろ珍しいいでたちをしていた。喫茶店の雰囲気ともマッチしていてカッコ良かったが、今ではそれが逆に癪でもある。

「音楽を聴きながら勉強していたのかい?」
二分前に、今日は邪魔しないようにするよ、と言っていた男は、読んでいた新聞を折り畳み、隣の椅子の上に置いた後、尋ねてきた。
「そうですよ。悪いですか」
「悪いねえ。何よりもコスパが悪い」
男が鼻をこすりながら言った。男が鼻をこするときは、うるさいことを言うサインだ。
「脳というのはもともと、一つのことに集中するように出来てるんだ。それなのに、音楽を聴きながら勉強なんてしたらどうなる。脳はどっちに集中したらよいのか分からなくなる。そして結局、勉強の成果も得られず、音楽の良さも分からないまま、君は大人になってしまうんだよ。二兎を追う者は一兎をも得ずとはまさにこのことだね」
「いいんです。音楽聞かなくても集中なんてできないですから」
なげやりな口調で反発した私に、男は肩をすくめた。


気が付けば男は私の携帯を握っていた。
男が見ているのはロックされている待ち受け画面だった。さっきまで流れていた曲が表示されている。
「アビィ・ロードか。いい曲だよね」
「それはアルバム名ですよ。曲名はその上に書いてるやつです」
男はたまに知ったかぶりをする。私よりも年上に見えるが、知識や経験が私より豊富なのかは定かではない。
「知ってたよ。いいアルバムだよね、これ」

さっきまで、オー!ダーリンを聴いていたのだが、ふと、思いついたことを口にした。もうペンは右手から離れている。
「この曲、歌詞が少し変なんですよ」
オー!ダーリンは、曲名のとおり、ダーリンに対して「大好きだよー!」的なことを言っているものだと思っていた。しかし、歌中に
『I'll never do you no harm』と歌われている箇所がある。
「普通なら『I'll never do you harm』じゃないですか。これで『君を一生傷つけないよ』なら分かるんですけど、『I'll never do you no harm』だったら、『君を一生無傷にはしないよ』って意味になると思うんです。でもこれっておかしくないですか?愛を伝える歌の中に、絶対入れちゃ駄目な歌詞じゃないですか」
携帯の画面を操作し、歌詞を表示する。男にその画面を見せると、本当だ、と驚き、うーん、と唸った。
「やっぱりあれだ。英語ってのは日本語と違うってことだ」
暫く唸ったあと、男が出した結論はこれだった。
どういうことでしょう。恐る恐る尋ねると、男は答えた。
「だから、英語は英語でしかないんだよ。この文章を、日本語で訳すと変になってしまうのはしょうがないんだ。英語は英語でしかないし、日本語は日本語でしかないんだから」
聞いた上で、意味が分からなかった。戸惑うような顔でいると、男は話をつづけた。
「中学とか高校で、英語ってのを習うだろう?そのとき、『I am …』の意味はこれで、『You are …』の意味はこれで…って説明するわけだ。『enough』の意味はこうですよ、とか、関係代名詞はこう使いますよ、とか。でも、アメリカの住人は友達と喋るときにそんなことを考えるか?『あれは現在完了進行形で表すべきことだな』とか、今の『can』は可能の意味かな、推量の意味かな、とか、考えるだろうか?」
いやあ、どうだろう、と相槌を打つ。
「多分考えないだろう。というより、考える必要がないんだ。我々が会話をするときに『お釣りってなんて言うんだったっけ?』とか、『この人に対してさようなら、と言うべきか、バイバイ、と言うべきか』ということを考えずとも口が動くのと同じように。脳より口が覚えるんだよ、言葉なんて」
つまり、オー!ダーリンの『I'll never do you no harm』は、『もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対に』と同じようなもんだ、と締めの台詞を吐き、男は店員が届けてきたアイスコーヒーを机に置かせることなくそのまま手に取り飲み干した。
最後の台詞には疑問点があるが、言いたいことは何となく受け取れた気がする。

「ってことは、言語の違いによって生まれた文化の差もありそうですね」
私はつぶやいた。すると男は目を見開き言った。
「そうだそうだ。分かりやすいのが服装だよ、服装」
「服ですか?別にファッションは世界共通な気もしますけど」
「いいや、違うね。じゃあ君は、英字をプリントした服と、日本字をプリントした服、どちらをよく見かける?」
「そりゃあもちろん英字ですよ。日本字はおろか、中国語もハングル文字も見たことないかも」
手をたたいて男は言う。
「それだよ。それが文化の違いだよ」
嬉々とする男に、海外に行ったことがあるのか尋ねた。
「もちろん。沖縄に二度ほど」
「沖縄日本ですよ。海超えたらいいってもんじゃないですよ」
「いや、でも、外国人も英字プリントのパーカーとか、着るものだろう?」
「現地で見てない限り、想像の範疇を超えないですよ」
これじゃあ、言語による文化の違いとは言い難いですね、と言い、カフェラテを飲む。

結局、勉強は出来ずじまいに終わった。
あの名曲を作った、ビートルズのせい、とでもしておこうか。

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