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可哀想は可愛くなんてないはずで

加害されるほど生きてるって感じがした。そんな時もあった。何もしないのって楽だから、ぼんやりと生きていたかった。

おじさんを騙した女の子が逮捕されて、可哀想な半生だったと、ネットまとめに晒されていた。
おんなのこの日記はたちまちみんなの心に拡散された。
私もあの子だったのかもしれない。
ふと、そんなことを思う。あの子が可哀想なら私は可哀想な人間なのだろうか。
そう考えれば考えるほど、たまらなく寂しくなって、腕を噛んでみた。バレないくらいの歯形をつける。

なんで、愛情が何かわかるように育ててくれなかったの?

おんなのこは日記にこう記した。
恋した女の子のふりはできるのに、本当の愛が分からない彼女の気持ちを分かってしまうから、いやわかってると錯覚してしまうから、私は"あの子"だったのかもしれないと思う。

ずっと恋が分からなかった。
肉親ですら"ガチャ"で表現してしまうような世の中だから仕方ないのかもしれないけど。
自分の人生の責任をみんな持ちたがらない、自分のことなのにどこか他人事。そんな薄いカルピスのような日々を送る人が増えていってる気がする。周りも、私自身もそうかもしれない。

でも、何となくわかってきた。
絶対的な正解はなくて、これは一人一人の正解があるのだと思う。
私にとっての正解の恋は、まっすぐ目を見て、お話ができる人、美味しいご飯を惜しまずに食べることができる人、夜と朝の境界が綺麗だとわかる人と過ごすことだと思った。

恋も愛情も形がないものだから、みんな形を残そうと必死である。でもそれは時に人を傷つける。
それなら私は形のないままで不確かなもので満ち満ちていきたい。

人と会話して生きていきたい。誰かが定義した恋ができないから可哀想だなんて、決めつけられたくもないし、可哀想なあなたが可愛いだなんてもっと言われたくない。

それぞれの正解を生きて、今日も。

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