「今日、死んだっていい」って思える人生

よく、ポジティブ自己啓発系が声を高らかに、「人生は一度きり」や「今を全力で生きよう」という人生謳歌しようぜメッセージを発信しているのを見かけるが、

正直、この手のメッセージや思考は「うるせえ黙れ」と思いながら唾を吐いて無視している。

「明日死ぬかもしれないと思いながら、1日1日を大切にしましょう。」

「やり残しや後悔がないように、毎日を充実させましょう。」

もしこのメッセージを間に受けるなら、私たちは貯金もするべきではないし、学校や家庭、会社などに所属するべきではないだろう。

なぜなら、生きるというのは「明日がある前提」で考えなければならないからだ。

「明日死ぬかもしれないから、高級な料理を食べまくってお金を使い切ってしまおう」
「明日死ぬかもしれないから、むかつく先輩や親をすぐにぶん殴ってやろう」
「明日死ぬかもしれないから、学校をさぼって海外旅行に行ったり、会いたい人に会いに行こう」
「明日死ぬかもしれないから、帰り際の挨拶を一生の別れだと思って泣きながら握手しよう。」

極論ではあるが、こんな考え方でいたら、同じ日常を続けていくのは困難である。

ここで言う「明日」とは、日付け的な意味ではなく、数年後や数秒後も含めての「未来」という大きな概念でもよい。

明日も同じ家に住み続けるために、家賃を払ったり、家族と円満に過ごす。
明日も同じ場所で仕事を続けるために、トラブルやミスを起こさないように努める。
明日も同じ席で平穏に過ごすために、学校内でも友人関係や学業に支障がないように気をつける。

言い換えると、「生きるというのは、常に明日のことを考え続けること」ことでもある。

もちろん、本当の意味で、明日、もしくは今日、私もあなたも死ぬかもしれない。

でもきっと、いつ死んだとしても、後悔はあると思う。

「明日、久しぶりに会う友人たちとの飲み会があったのに…」
「来週、好きだったアーティストの復活ライブがあったのに…」
「来月、ボーナスが入って新しいバイクを買う予定だったのに…」
「来年、孫がランドセルを背負う姿が見れたのに…」

少なくとも、私はいつ死んだとしても、やり残しや心残りはあるだろうと思う。

でも、“やり切った!”と思える毎日であれば、それはそれで生きる意味がないとも言えるし、

“もっとああすればよかった“ばかりの反省も、つまらない人生に思えてしまう。

だから私は、「ほどほどに明日のことを考える」くらいの生き方が、ちょうど良いと思っている。

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