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青春の蹉跌

生活していると、話の流れで、学生時代の話になることがある。
そうじゃなくても、島の出身だというと、「ずっと島から出なかったの?」と訊かれることもある。

その度、私の心の古傷が存在を主張してくる。

私は希望を胸に18歳で島を出て、落胆と失望を土産に21歳で島に帰ってきた。
今日の話は、できれば無かったことにしたい話。
どこにでもあるような、私の後悔の話だ。

18歳の春、関東の大学に入学した。
特にやりたい事があったわけではなかったので、手に職をつけた方がいいという理由だけで、リハビリ系の学部を選んだ。

初めての一人暮らし、都会での暮らしは刺激的で楽しかった。
好きなものばかり食べても、夜中までDVD観ていても、誰にも怒られない。

食費を削ってライブハウスに通い、友達と初めてオールナイトのDJイベントに行ったこともある。

趣味繋がりで知り合ったお兄さんやお姉さんに遊んでもらったり、サークル活動に精を出したり、それはそれは夢のような4年間だった。

しかし、肝心の学業の方はというと、さっぱりだった。
元々、興味があって入ったわけではなかったし、専門的な話はちんぷんかんぷん。
授業も半分以上寝ていたし、テストも下から数えた方が早かった。

入学早々、なぜこの学部に入ったのか、という定番の自己紹介があり、同期のみんなが「人の役に立ちたい」とか、「この職業に興味があった」と話すなか、私は、みんなすげーな、と思いながら、得意の口から出まかせでそれっぽい話をでっち上げた。

私は、島から出られたらなんでもよかった。
知らない世界をたくさん見たかったし、一人暮らしもしてみたかった。

本当は、音楽が好きだから、音楽に関係する仕事もいいな、と思ったこともあったし、バリバリの文系なので、ベタに文学部もいいな、と考えたこともあった。

だけど、「あんた今は良くても就職する時どうするの?」という親心を跳ね返せるほどの強い気持ちではなかったんだと思う。

そんなやる気のない学生だったが、補講と追試をどうにか潜り抜け、私は大学三年になった。
一、二年次は座学のみだったが、三年の後期からは実習が始まる。

三年は学内施設での実習、四年は病院やリハビリ施設での実習、その後国家試験に合格し、無事就職という流れだ。
私は、学内実習の時点でつまづいた。

リハビリ職なので、利用者さんとのコミュニケーション、症状の適切な評価、そしてリハビリメニューの提案が求められる。

私は、そのどれもが足りなかった。
散々不真面目に過ごした三年間のツケが回ってきたのだ。
授業を真剣に受けていなかったので、当然知識が足りない。
加えて、元々コミュニケーションが得意なタイプではなかった。

先生の質問にもちゃんと答えられないし、利用者さんを前にしても、同じグループの子たちが積極的にコミュニケーションをとっているのに比べて、私は全然上手に声かけができない。

準備や後片付けも、いつも一歩遅れて動くから、先生からは「もっと積極的にね」とよく指導された。

同じグループの子たちのおかげで、どうにかグループ実習の数ヶ月を乗り越えたが、冬休み前のある日、数人の同級生と一緒に担任の先生に呼び出された。

先生曰く、貴方たちのグループ実習の成績が思わしくなかった、このままでは、学内のリハビリ施設での実習に出すことはできない、貴方たちは、もう一度、先生たちを利用者さん役に見たてて、実習をしてもらいます、とのことだった。
端的にいえば、これでダメなら留年な、ということである。

面談の後、同じく呼び出されたクラスメイトと、「ヤバいね」と顔を見合わせる。
私と彼女、どちらが先に口にしたのかは忘れたが、「やっぱ向いてないのかも」と、弱音がこぼれる。

「私、海が好きでさ、本当は海洋生物の勉強したかったんだよね」と、同級生の彼女がいう。
「わかるよ、私はね、音楽が好きだから、音楽系の何かやりたかった」と私も返す。

彼女は、無事に実習をパスして、リハビリ職に就いたはずだ。
私とそんな話をした事も、覚えてないだろう。

私は、恐れていたとおり、留年が決まり、二回目の三年生となった。
親、特に父親には、しこたま怒られた。

「お前、本当に心を入れ替えて、死ぬ気で真面目にやれよ!」という父の言葉に、私は確かに「はい」と答えた。

しかし、喉元過ぎればなんとやら、で、人間はそう簡単には変わらない。

授業をサボりはしなかったけど、以前より積極的に質問をしに行くわけでも、勉強時間が増えるわけでもない。

勉強しようと入った図書館では、専門書ではなくキネマ旬報ばかり読み、夜は勉強ではなくライブハウスにばかり通っていた。

二度目の学内実習、去年もやっているはずの私より、初めて実習に取り組む後輩たちの方が、よっぽど優秀だった。

声が小さい。積極性を持って。もっと利用者さんのことよく観察して。
一年前と同じようなことを今回も指導される。

レポートの類はどうにかなるけど、肝心の実習だけはどうにもうまくいかない。

毎日残って練習でもしていればよかったんだろうけど、私の悪い癖で、いつも目先の楽しそうな事に飛びついてしまう。

そんな最低な留年生活を過ごし、12月も終わろうとするある日、担任の先生に呼び出された。
デジャヴだ。

ぽん子さん、あのね、先生の穏やかな物言いが逆に怖かった。

実習の成績が、やっぱり思わしくないこと。

ぽん子さんには、もしかしたら、他にもっと向いているお仕事があるんじゃないかな、と思うのよ。
ぽん子さんの穏やかな性格を活かせる場所、探してみるのもいいんじゃないかな。

私を傷つけないように言葉を選んでくれてはいるが、もう面倒みきれない、大学辞めて他の進路に進んだ方がいいんじゃね、ということだ。

ご両親とも一度お話しした方がいいと思うのよ、お手紙書いておくわね。

担任の先生からの連絡を受け、両親が揃って島から飛んできた。
両親と先生の話し合いの場に、私が同席していたかは記憶がない。
だけど、私に話した事と概ね同じ内容だったんだろう。

4年間住み慣れたアパートで、両親は、「もう大学辞めて、島に戻って来た方がいい」と言った。

私は、今更になって、中途半端で辞めるのは嫌だと思った。
実習は散々ながらも、一年前より少しはマシかも、という瞬間もあった。

散々不真面目に過ごしていたくせに、せめて、3月までは頑張りたい、これでダメなら辞めて島にもどるから、と泣いて頼んだ。

しかし、両親が首を縦に振ることはなかった。
私も一度留年している手前、それ以上強くは頼めなかった。

冬休み明け、まだ寒い時期に、私は同級生より一足早く大学を去った。

四年前、希望を胸に入居したアパートの荷物を片付けながら、私は不甲斐なさと後悔で胸がいっぱいだった。

本当だったら、就職先が決まり、新生活に期待と不安を滲ませながらこの部屋を去るつもりだった。

現実は、頑張って学費を貯めてくれていた両親に対する申し訳なさと、今後の人生に対する漠然とした不安、真面目に勉強せずに、中途半端なまま地元に帰ることになってしまった自分に対する失望を抱えて、島に戻ることになった。

これが、散々好き放題した私の4年間の成れの果てだ。

島に戻ってきたから、新たな出会いがあったと、今なら思うこともできる。
実際、地元に戻ってからの10年弱は、悪いことばかりではなかった。

だけど、私は、未だに心のどこかであの時の事を後悔している。
全力で頑張ってダメなら諦めもつくが、中途半端に過ごしたから、もし真面目にやっていたら、何か違ったかもな、と時々頭をよぎることがある。

或いは、親に反対されても、大好きな音楽や本に関係する仕事を選んでいたら、途中で挫折することなく頑張れたかもしれない。

夢に向かって頑張る人の姿を見た時、諦めない誰かのサクセスストーリー、関東で過ごした4年間を語る時、私の心は、今でもジクジクと疼くのだ。

今日の一曲
素晴らしい日々/時速36km

20日目
一番後悔していること
































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