文章は、生きている
文章は、生きている。そうおもうときがある。
朝起きて、スマホをチェックする。noteの記事に、大量のいいねが付いていた。おなじ人が、わたしのnoteの記事を遡って読んでくれたようだ。最後の通知は、コメントだった。
「とみえりさんの文章が好きです。」
知らない誰かが、夜中にわたしの文章を読んで、なにかを感じてくれて、それを言葉にして届けてくれたのだ。
わたしが眠っているときにも、わたしの文章は起きていて、誰かと対話してくれていたのだ。
それは、たとえわたしが落ち込んでいるときでも、わたしがかつて楽しくてワクワクしているときに書いた文章は、いま世界のどこかで、誰かを明るくワクワクした気持ちにしてくれているかもしれない、ということ。
それは、たとえわたしが眠っているときでも、地球の裏側で誰かがわたしの文章を読んで何かを想ってくれているかもしれない、ということ。
言葉にした分だけ、自分の分身がどんどん増えていって、それはわたしが知らないところでも、誰かの心に届いている、のだ。
*
結婚した友人に、手紙を書いた。大学時代から仲が良く、友だち思いのやさしい子。新居に飾って欲しくて、ミモザの花と一緒に、手紙を渡した。小さなカードに書いた短い言葉を見つけた彼女は、「うわぁ、おうちで読む!」と、わたしの言葉を持ち帰って、家で旦那さんと一緒に読んでくれた。
「旦那がね、えりぴーの手紙を読んで、いい友だちを持ったね、って、言ってくれたの」
その日の夜に、彼女が連絡をくれた。わたしは彼女の旦那さんには会ったことがない。けれどそのとき、わたしの文章が、わたしのかわりに、彼女の旦那さんに「会ってくれた」のだと、おもった。
*
フランスに住む恋人に、手紙を書いた。書いたときは大好きだったけれど、それが彼の住むパリの家に届いたときには、つまらないことで大喧嘩をしていて、大きらいだ、とおもっていた。
けれど、その手紙を読んだ彼が電話をしてきた。明るいわたしの文章が、わたしたちをなだめた。そしてそのまま仲直りをした。
だから「好きだなぁ」とか「頑張らなきゃ」とか「楽しい」とか「嬉しい」とか、そういう大切な感情を抱いたとき、わたしはぜんぶ文章にして、日記やnoteに残しておきたい、とおもうのだ。それは自分が、“そうでないとき”に、必ず助けてくれるものになるから。
(もちろん、言葉にできない感情はたくさん、たくさんあって、そっちのほうが大切なときもあるのだけれど。)
*
わたしのスマホの中には「嬉しかった言葉フォルダ」というのが、ある。今まで人からもらった、嬉しかったメッセージやコメントでの言葉をスクショして残してあるフォルダだ。元気が出ないときは、布団にくるまりながら、そんなフォルダに入った言葉たちを眺めてまた、頑張ろうと、おもうのだ。言葉の力は無限大であり、その力は長く長く、続く。
だからこそ、誰かが書いた文章は、今日も誰かを救ったり、誰かを励ましたり、誰かに希望を与えたり、誰かを愛おしい気持ちにさせたりするものであってほしい。
批判や誰かを罵った文章を読むたびに、「なぜこんな自分の分身をわざわざ作るのだろう」と、おもう。世界に広がる文章が、少しでも誰かを前向きにするものでありますように、と、考えながら、雨降る日曜日におうちでぬくぬく過ごすことを、楽しんでいる。はやく今の世界が落ち着きますように。