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全てのものの抽象化は【時間】なのか。こどもと私の時間"感"。

親子で具体と抽象化の話をしていたときのこと。長男に
「すべてのものを抽象化したらそれは【もの】になるの?」と問われた。

※以下対話の概要。間のやり取りを省略しています。
親:「ものじゃないものもあるんじゃない?」
子:「じゃあ【もの】じゃなくて【なにか】なのかな」

子:「僕たちが認識できるものは全て記憶で構成されているから、全てのものを抽象化したら【記憶】になるのかな。。?」

親:「他の人の記憶にあるものはどうなの?」
子:「じゃあ【なにかと関わっているもの】というはどうかな」

子:「何にも関わってないものは存在するのかな。いちばん世界と関わっているものって何だろう?」

親:「『関わる』ってどういうことかな?」
子:「関係性は影響を与えられるかどうかだじゃないかな」

子:「すべてのものに影響を与えられるものはもしかしたら【時間】かも。すべてのものの抽象化は【時間】じゃない?」という考えが浮かび上がってきたところで、集中力切れ。

かなり長い時間だったのに、黙々と興味のままに考えられるのは素敵だし、そのほかにある些末なことを一旦ぜーんぶ脇に置いておいて、こういうことに一喜一憂できる彼の物事への向き合い方が本当に好きだなぁ、という感想を持ったできごと。

彼が9歳になった今も、こういうできごとにたまに出会えると、そもそも私は彼と哲学対話したかったんだよなぁ、と思い返すことができる。彼の思考の一つ一つ全てがとびきり面白くて、そんな彼がずっと面白く楽しく考えられるためのサポートを、一番身近なところでしたかったんだよなぁ、そのためにこども哲学に関わろうと思ったんだよな、と振り返る。そうだ、そうだった。

そんな彼にとっての今一番身近にな人も、そろそろ我々親ではなくなってくるし、彼がこの先心地よく放たれているところで、存分に彼と対話してくれる人が見つかってくれるといいなぁと思う今(こっそり尊敬する方にメッセージして個別に長男の哲学対話に付き合ってもらえないかのお願いする)。そしてそういう風に放たれてきた子どもたちと、私自身も外でもたくさん対話しようと改めて誓う。




ここからはちょっとしたおまけの話。

私の中で「もしすべてのものの抽象化が「時間」なのだとしたら」というソロ対話が始まって、時間についてずっと考えていた。

私は長男が小学生になったころからずっと、彼が時間の概念を身に着けることにとても大きな抵抗感があった。時計の読み方を覚えたり、腕時計を身につけたりして、時間を意識して行動する。そういうことを少しでも遅らせたいという思いがあったように思う。

その抵抗感の正体はなんなのか、なんとなくの答えは持ちつつも、これといった納得のいく答えにはたどり着けていないと思っていたが、先日1つの答えの型を教えてもらう機会があった。

我が家は次男がこの度幼稚園に入園することになり、共働き家庭の我が家にとっては想定していなかったライフステージに突入した。彼は今のところ毎日12:00頃帰宅してくるし、今後も水曜日は毎週お休みというサイクルだ。

そんな幼稚園での園長先生の言葉。
「こどもは足し算の時間の中に生きています。今を夢中に重ねて、その先に『お腹がすいた』や『眠い』がある。大人は引き算の時間の中に生きています。先々の見通しを立てて、その時間までの間に何をしようか考える。見通しの中に今の時間が存在するんです」

私は長男に、足し算の時間の世界にずっとい続けてほしいと願っていたんだなと気づく。
足し算の中にいる彼にずっと憧れて生きていきたかったんだ。
相変わらず長男は片足どころか、ほぼ二本足を足し算の世界に生きているし、彼の人生は確実に今を積み重ねているという実感があるけれど、きっとこの先変わっていくだろう。変えようとしているのは私かもしれないし。

彼の人生の抽象化も時間なのだとして、その時間の「使い方」はどこに位置するんだろう。


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