雑感:[後編]RE:Cot PENGUINDRUM
今回はネタバレあります。
輪るピングドラム十周年を記念した劇場版総集編 後編を観た。アニメ版よりもすっきりしていて、メッセージがよりスッと入ってきた。運命の果実とは何か。ピングドラムとは何か。そんな青臭いこと、この日記には書けないね。
不思議な作品であった。実を言うと、この作品の音楽やビジュアル、ギャグは自分の趣味ではない。それは多分、時代錯誤かもしれないが、この作品が女性的な感性で作られているからじゃないかと思う。監督の特殊な感性がファンを増やしているんだろうなというのは感じるし、重たいテーマを少女漫画的なノリでやるから観れている…んじゃないかな?所謂「抜け」ってやつ。
でもやっぱり、映画をきっかけにこの作品を知ることが出来て良かった。
「何物にもなれない」から「何者かになれる」へ
前編、印象的だったのは、プリクリ姿の桃果による「きっと何物かになれるお前たちに告げる」という台詞。いろいろ思わせぶりだったが、結果、ストーリー的には、2週目の兄弟に対しての回答だった。
が、あれは多分、我々に向けたメッセージでもあった。少なくとも自分はそう受け取った。この十年間、残念ながら透明なこどもたちは減らなかった、だから作品で救うことをした、それが総集編で監督がやりたかったことだったんじゃないかと思う。だから、「愛してる」だったんじゃないかな。
実際、程度はあるものの、何らかの形で透明、とまではいかなくても、半透明になってしまいそうなこども達がいるのは切に感じる。果実を分け与えることの大切さを肝に銘じて生きていきたい。心の底から思える。
列車と運命
列車と運命、やはりあの映画を思い出してしまう。(本来、公開日的には逆だけど。)
あのシリーズのTVアニメは運命を打破し、自分のものにする物語、すなわち運命の上書き=運命論の否定(言いすぎかなw)の物語であった。劇場版では人生を列車に例え、運命論を否定した人生の恐ろしさを脱線として表現した。人生には線路は1本であり、苦しみながら次の駅に進む、それがあの作品だった。
ピングドラムでは、進み続ける列車を運命、それも抗いようのない運命、として描いた。そして、ラストで運命は「乗り換え」られた。すなわち、ピングドラムは、それぞれの「原罪」を背負ったこどもたちの運命を荻野目姉妹が「乗り換え」る物語である。そして「乗り換え」は日記帳という魔法のアイテムではなく、「罪」や「愛」の象徴である「果実」を分かち合うことで実行される。
どうしようもない運命を列車とし、「愛」を運命さえも乗り越えられる特別なものにしたのが、ピングドラムだったんじゃないだろうか。
この二作品が、電車と運命というモチーフで、全く異なるテーマで、全く違う扱い方をしているのは、作品が生まれた時代の差なのか、監督の作風の差によるものなのかは分からない。が、別ベクトルの作品ということを否定されると、例の新人監督にとっては師匠のパクリということになってしまうわけで、そう考えると新人監督が師匠の影響を頑なに否定する気持ちも分かる。
おわり
このアニメ、他人の考察を読もうが、糞アニメだったと罵ろうが、監督についてdigろうが、思いを巡らせた先できっと何らかのメッセージを受け取れるパワーを持っている。10周年クラファンで劇場版の機会を与えてくれた既存ファンには本当に頭が上がらないし、自分も多くの人に観て考えてもらいたいと思う。この矢印、これもまた、ピングドラムなのかもしれない。
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