面白い=救われる

フィクションの「面白い」の一つに「救われる」がある。

「面白い」とは何か。「あー、面白かった!」を噛み砕くと、「作品から何らかのメッセージを受け取り、感動した、学びがあった、精神的に満たされた!」になる気がする。この「精神的に満たされた」こそが「救われた」ではないか。

「救い」とは何か。ググる。

〈救済〉ともいう。一般に,超自然的な存在や力もしくは自己の精進・努力によって,生理的な病や心理的な苦痛から脱却すること。

救いとは - コトバンク

超自然的な存在によって、生理的/精神的苦痛から解放されることが救いの一つであると。要するにフィクションに「救われる」とは「報われる」であり「許される」なんじゃないだろうか。


癒やしアニメ:他人を信じることに対する「報い」

アニメ「DIY!!」で純粋無垢な少女たちの1ミリも悪意のない会話を観ていると、癒されると同時に報われるなと思うことがある。全キャラクターが思いやりを持ち、性善説に基づいてコミュニケーションを取っている。そこには、悪意や敵意など微塵もない。この閉じた優しい世界こそが、他人を信じることに対する報いであり、救いであると感じる。

現実において、他人を信じるのはとても難しい。それでも他人を信じ、許し、認めることを経験し、1%でも人間の善を信じているオタクは、フィクション(たとえ嘘であったとしても、説得力さえあればよい)の癒しアニメを観て、優しい人間だけのコミュニケーションが存在しうることに報われるのである。

おそらく、これは癒し系アニメに限った話ではない。人情系の映画や、友情・努力・勝利の漫画も似たようなものである。


スタァライト:消費する罪に対する「許し」

アニメ「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」には「報われる」ではなく、「許す」という形で「救われた」ことがある。それは、演者やアイドル、キャラクターを「消費する」罪に対する「許し」であった。

そもそも、スタァライトは罪アニメである。作中では罪は赤として表現される。赤い星・血塗られた星は舞台少女の罪、手を伸ばし「求める」ことの罪の象徴である。スタァライトでは、舞台少女の「求める」ことの罪は、生まれながらにして背負う罪、本能であるからその覚悟を持て、というのが落としどころになっている(と解釈している)。言ってみれば開き直りであり、これは許しではない。

ところで、我々観客もまた演者に対して「求めて」いる。それこそが、役者、アイドル、或いは一個人の偶像に「期待する」という罪である。スタァライトでは、観客が「求めた」せいで舞台少女が苦しむという描写があり、キャラクターを「消費」することを罪として示し、オタクに背負わせているようにも思える。

では、この罪はどのように許されるのか、それは「共犯関係」という形でである。それは我々観客が偶像を「求めて」「消費する」のと同じくらい、演者がスタァになることを「求めた」結果観客を「魅了してしまう」ことが罪である、ということである。

魅力的だから魅了されるのだ、というのは実に身勝手な言い分だが、レヴューによって繰り返し描かれる、「魅せる・魅せられる」関係を観れば、魅せることの罪もすんと飲み込めるようになると思う。


おわり:アニメと宗教

アニメこそが現代の宗教である、という話はよく見る。こう考えると、アニメと宗教が結びつくのは、意識的/無意識的に宗教をベースにアニメが作られた、というよりも、まったく別の場所のスタートからアニメを作ったら、宗教と同じゴールに近付いていた、という方が正しいような気がする。


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