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愛としてのロック

この間少し、Mahel Shalal Hash Bazの工藤冬里さんという前衛音楽家が書いた「ロック史」というエッセイについて話していた。

音楽家であり、陶器を作る作家でもある彼は石を砕いて作る白磁から、「やきものよりも大事なものに抵触してしまう、或いはその界面に触れる歴史」=ロック史へと鮮やかな飛躍を見せる。そしてロッカーとして現実とどう対峙していくことができるかという問いに向かっていく。

それが面白くて、いろいろ友人にきいてたんだけど、どうやら工藤さんのロックとは、キリスト教的な原罪を背負った人間たちに、贖罪として義務付けられた愛のようなものらしい。個人的にキリスト教的な原罪の観念っていまいちピンとこないし、何より楽しくないので好きじゃない。

でもそこにたとえば、宮崎駿の「火(それは技術、文明に燃え広がっていく…)こそが人間の原罪だ」という考え方を代入してみると、もう少し見えてくるものがある気がする。でもなんだかもやもやしているばかりでそこからしばらく思考が止まっていたけど、そうだ、もうひとつ見つけた。The Vinesだ。

引きこもりの少年だったクレイグ・ニコルズはある点では人間嫌いで、ほとんどマクドナルドしか食べられない上に手にしているのはエレキギターだけど、テクノロジーや資本主義の邪悪さを皮膚で感じ取って苛立っている。醜悪な文明社会のなかにあって、決して現実的に彼が生きていくことのできないような原初の社会(部族社会といってもいいかもしれない)に憧れを抱く。

でも彼がかろうじて生きていける社会は、それでもあまりに生きづらかった。たったひとつ、音楽だけが彼を生に、社会に繋ぎ止めている。彼の音楽はまさしく愛だ。彼にできる、ほとんど唯一の人との繋がりかた、人間の愛しかたが音楽だ。文明という原罪が燎原の火のように広がった社会に取り囲まれながら、誤解され、愛想を尽かされ、投げ出されても彼は今だって歌い続けている。

ボルヘスの『幻獣辞典』に出てくる〈足萎えのウーフニック〉(The Lamed Wufniks)のように、たとえ誰にも顧みられることがなかったとしてもきっと気にもせずに、彼は引きこもって音楽を作り続け、そしてそれが見えない柱となって世界を確実に支えている。ウーフニックは自分の使命を知ると命を落とすらしいけど、彼はウーフニックではない。なぜなら彼の真っ直ぐに受け止めている人びとはすでにこの世界にいるからだ。

おれの考える愛としてのロックはこれだ。そしてクレイグ、愛ってやつは一方向で終わるものではないから、今度はあなたが受け止める番なんだよ。



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