見出し画像

乃木坂太郎『第3のギデオン』1~8 小学館

 『幽麗塔』を読んで以来、乃木坂太郎という漫画家を信頼している。『第3のギデオン』はその『幽麗塔』の次作。フランス革命前夜、子ども時代に貴族に育てられた過去を持つ平民の男、ギデオン・エーメが三部会議員を目指すところからはじまり、兄弟同然に育った貴族の子息であり、生き別れているあいだにすっかり人の変わっていたジョルジュ・ド・ロワールが暗躍し煽動する凄まじい暴力の渦に巻き込まれていく。だが晴れて議員となったギデオンがジョルジュを闇から救い、どん底の社会を変えていく話なのかというと、そうはならない。後半はルイ・オーギュストとマリー・アントワネット一家の物語がメインとなって、ギデオンはそのまわりをチョロチョロする狂言回しのようなポジションになっていく。

『幽麗塔』があまりに素晴らしかったので、それと比べたらもやもやするところがいくつかある。しかし終盤の畳み掛けはさすが。乃木坂太郎、やはり異常に漫画がうまい。うまい、うますぎる。誰一人として完璧な人間はおらず、考えや心情も他者のささいな言動で容易く何度もひっくり返る。それを描くのがこれだけ巧みなのは、やはり登場人物に対する深い愛情ゆえなのだと思う。ラストにマリーの見せ場を持ってきたところにはやられてしまう。あえてエロやグロを強調して描くが、この人は女性を矜持ある人間として、本当に強くしなやかに気高く描く。そこが好きだ。

 とにかくルイ・オーギュストとマリー・アントワネットというキャラクターがあまりにも魅力的で、うっかりすると主人公であるギデオンの株が下がりがちだが、そもそもフランス革命は歴史上の出来事であって、フランスがマシな状態になるのはずっと先の話である。乃木坂太郎が産み落としたギデオン・エーメというちっぽけな男ひとりがどうにかできることは、考えてみれば非常に限られている。だからギデオンが作中で成し遂げなかったことや成し遂げてしまったことに目くじらを立てる気はあまり起きない。ギデオンという、どうにもならない物事に翻弄されて、自分の感情を一切隠すことができずにむき出しのまま突っ走ってしまう男にもやはり魅力を感じる。その娘のソランジュやジョルジュの選択についても同じだ。彼らは家というものによって受けた呪いを跳ね飛ばして、死ぬために生きることや大義名分のために生きることをやめ、自分のために生きることを選んだ。人間は誰だっていつだって幸せになろうとすべきだし、なっていいんだよ。やりたいことしかやりたくないね、やっちまいな、いいよ! 

 さまざまな要素を含んでいる作品ではあるが、そこで見いだせるもっとも太い思考の道行きは、やはり父と子(娘)という関係性にまつわるものだろう。家族が自分を損なうものであるのなら、いつだって逃げていい。でも父を、母を知らないでどうやって新しい自分の家族を持てるのだろう。のたうちまわりながら父であろうとするギデオンの姿は胸に迫る。作品の終盤において、父であるということは孤独に耐えることだというひとつの答えにたどり着いているものの、それが国王という「国の父」にオーバーラップしていくのは残念だ。やっぱり一人の人間が国を背負うことなんてできないし、すべきではない。ルイ・オーギュストはフランスという「家」から逃げ出してもよかった。痛々しいまでに父を求めるギデオンに応えるのに、王は国民の父だからなんて御託はいらない。ルイ・オーギュストやマリー・アントワネットが魅力的だったのは王族だからではない、彼らが彼らだったからだ。ギデオンを受け止めたいとおもったのは国王だからで、それ以上でもそれ以外でもないというのだろうか。いや、違う。ルイ・オーギュストにとってギデオンが大切な友人だったからに他ならない。

 マリーとその子どもたち以外の母子関係が後景に退いているのも残念だ。マリーとロラン夫人は対のように描かれているが、マリーがよき母であり高貴で気高い女だとしたら、ロラン夫人はそうではないのだろうか。国王一家を救い上げることに腐心して、どこかほかの登場人物たちがないがしろにされているように思える。『幽麗塔』とちがって、救われていない人があまりに多すぎる。そこは好きじゃない。

 きっと乃木坂太郎は、調べているうちに本当にルイ・オーギュストとマリー・アントワネットが大好きになってしまったんだろうなと思う。王族や貴族や名のある歴史上の人物は史料がある、あるからいくらでも深掘りできるし、掘れば掘るほど楽しい。でもそれだけではだめなのだ。歴史を掘り起こす仕事でもっと重要なのは、華々しい人物を追いかけることでは決してない。名を残すことなく、ただ生きて生きて死んでいった人びとの暮らしを、ささいな痕跡や断片から呼び起こすこと。そういった死者たちの声なき声に全力で耳を傾け、対話を試みること。そういった仕事が教えてくれるものには計り知れないものがある。豊かな世界に触れる喜び、踏みにじられのたれ死んでいった人びとの苦しみに触れる痛み。思い浮かべてほしい、たとえば宮本常一の『忘れられた日本人』を、石牟礼道子の『苦界浄土』を、原民喜の「鎮魂歌」を。

 岩波書店のPR誌『図書』二〇二〇年四月号に藤原辰史の「泥の歴史学」と題されたエッセイが載っている。第一次世界大戦、ナチスドイツから農業史、環境史、食の哲学を研究する、間違いなく今の日本でもっとも信頼できる歴史学者だ。彼はこう書いている。「歴史学の作業とは、自分にはどうしようもない大きな力の下で、泥に打ち捨てられた人やモノたちを、史料の上で確認して、言葉にほぐすことで、その異形な人やモノが現代社会を生きるあなたの体の一部であることをら宗教や道徳とは別の次元で証明することだと思うのです。」「ヴェルダンの戦地では、若者の亡骸が、打ち捨てられた誰かの腕や鼻や指や耳と一緒に泥の中に埋れていました。震災後の泥の中にたくさんの瓦礫と亡骸があったことも、苦しいですが、認めざるをえません。歴史というタペストリーが、そんな泥の中でしか織れないことを、現在の歴史家たちはどうして忘れようとしているのでしょうか。」

 しかしこういった泥を這いながらのたうちまわるような仕事は、ほんとうは歴史家たちだけの仕事ではない。どんなレベルであっても、われわれもその痛みを引き受けなくてはならない。だから『第3のギデオン』でも、もっと地べたの人びとの生を描いてほしかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?